2026年9月15日 星期二

萬事有定期

 




題目:萬事有定期

經文:傳道書3:1-8

新聖詩:2,613,386

起應文:33

一、前言。

  人生在世間上生活著,有什麼事是重要的呢?

從出生,經過一生,最後走到生命的終點。怎麼樣子的終點才是值得我們追求的呢?時間到底是什麼?

 

  有人說,時間如同流水一般流過過去了。未來不是現在,現在的瞬間又成為了過去,人不知道時間從何而來又要往什麼地方去? 但是可以知道的,人和時間一起生活著。

 

二、人生的無常

  聖經傳道書寫到,「時間對人來說很重要的事情。作者常說到時間,在這書中總共出現了29,可見時間站人生中重要的份量

 

  人在不同的時間出生,也在不同的時間結束生命,人好像是一直被時間支配著,在變化無常之中來生活著。「人不知道自己的定期。魚被險惡的網圈住,鳥被羅網捉住,禍患的時刻忽然臨到,世人陷在其中也是如此。」(傳道書9:12

 

  傳道書作者講,天下萬事有他的期(傳道書3:1)

談到人生的現象,生來死去,時間就如同流水一般的過去了。又有人比喻人生如同一個旅程,一個人的出生如同火車的起點,一個人的生命結束也如同火車到達的終點站。

 

 我們如同一個固定的軌道上默默走的夜景汽車,從出生一直到生命的結束。人的時間流著人在無法完全掌握的當中行走著,人的生到死,我們不能完全自由的選擇說要向什麼地方去有定時,也有不定時的時候,這就是人生。

 

三、萬物有定期

  2節到8節學到人生的無常

人間的生活在各方面都有的定時。

「生有時,有時。(2) 種植有時而收成也有時。

「殺戮有時,治療也有時。滅有時,但是建造也有時。」(傳道書3:3

哭有時笑有時。嘆氣有時,而跳舞歡也有他的時候。(傳道書3:4

 

 丟石頭的時候有時,堆聚石頭有時。懷抱的時候有時,不懷抱的時候也有時。」(傳道書3:5

「尋找有時,失落也有時。保守有時,捨棄有時。」(傳道書3:6

「撕裂有時,而縫也有時。」(傳道書3:7)

愛有時,僧恨有時戰爭有時。和平有時。(傳道書3:8)

 

 中國的老子說:「知時心自靜」 。這個意義白話來理解,人的本性本來是清淨平和的,卻常常被繁雜的心思所擾亂;人心本來是安定寧靜的,卻被各種貪欲所牽引。

 

 日本話有一句,見定めることは至難」,指出,「人對事物做出明確的判斷、辨別真偽或看清局勢」這不是簡單的事這是在形容一個在現實的生活中,對於隱藏的事情要找出的意義是很困難的

 

感謝上帝!祂給我們一生的時間,讓我們把握現在,想一想,要如何來使用,積極地來追求真理,明白人生的意義,這是非常重要的事情。

 

三、上帝的預備

 萬物有其定期,人要如何面對?

在虛無多變化的環境中,感謝上帝有祂的旨意運行在這當中,

 

 三章11記載著,「上帝造萬物,各按其時成為美好,又將永恆安放在世人心裏;然而上帝從始至終的作為,人不能測透。上帝在人的心中放下了「永的思想,」,這一句話是比較困難了解, 永遠への思い」,這是指世界,無知,暗闇、等等的事。

 

 恆」或說「永遠」。這個意思的來源有「秘密,隱秘」的意思。

它指著「在遙遠的過去的時間」、314節記載著,上帝把「永遠的思想」放在人的心中,給人去思考,人可以透過回想過去,思考現在和未來,思考有關這「時間」對我們的意義。

 

 上帝的恩典之下,祂把這種不可思議的思考能力給人,並且用一生的時間讓我們去尋求。就是從人生的開始到終點這一段時間,把這珍貴的和探尋的能力給人了,但是人還是沒用辦法参透上帝的計劃。

 

 兄弟姊妹們! 聖經的寶貴在於上帝的啟示之下,信仰的前輩們把這些智慧記錄下來了。讓我們學習,我們本著謙卑的心來學習上帝對我們的計劃吧。

 

 學習的4個階段和效果,循序漸進,我們嘗試著努力看看

1聽先生教的2自己把所學的寫下來3 同學或是兄弟姊妹互相尋問學習4教學相長。自己嘗試著向其他的人來教導,如此,別人可以得到,自己也在教導的過程當中也獲得了許多。讓我們持續的學習尋求上主的旨意,如此不妄此生。

 

四、結語,趁著白晝多做主工

 台灣的諺語「八仙過海,隨人變通。」這是指一個人面對問題的時候,都用自己不同的能力和方式來應付。 今天我們也學習到了「時間」的重要,加上這一個力道來幫助人,看清時勢的變化,來做適當的應對。

這一種重要的能力,更能夠幫助我們在生活當中應用,來面對人生中的挑戰。

 

 兄弟姊妹們!讓我們把握時間,當趁著白晝多做主工。聖經的約翰福音 94節:「趁著白日,我們必須做那差我來者的工;黑夜將到,就沒有人能做工了。」這是主耶穌對學生的吩咐,我們要保握時間,多做主工。來榮耀上帝的聖名。

 

祈禱: 主的聖名是值得我們稱讚的。感謝主的恩典讓我們分享以色列人的人生智慧。今日我們再體會,明白「時間」的要緊,求主幫助我們,願我們所行的都是能夠榮耀上帝。 感謝祈求鳳靠主耶穌的聖名。阿們

 

完全無欠の人の癒しーナアマン

 



おはようございます。先週は各地で大雨の影響が続きましたが、皆様とご家族の生活は守られているでしょうか。今月もご一緒に主を礼拝できる特権を感謝します。

今日読んでいただいたのは、イスラエルにとっては敵国の軍隊の長のストーリーです。このころ、北イスラエルは北東部に位置するアラムとの間で、度々戦争がありました。ここに出て来たのはそのアラムの国の将軍、ナアマンという人です。

1.誰もが羨むものを持っている人、ナアマン

ナアマンは、アラムの王様に重んじられ、尊敬されている人でした。理由は、彼はが敢で、戦いでは常に勝利の先頭に立っているような人だったからです。(v.1)に「主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたから」とあります。


 アラムという国は、かつてイスラエルに偶像を持ち込み、唯一の神様を礼拝することを軽んじたアハブ王を打ち取ってイスラエルを霊的に最悪な状況から救い出したことがありました。

ナアマンがその戦いの将軍だったかどうかを聖書は記していませんが、彼が軍隊を勝利に導いたのは1度や2度ではなかったでしょう。


ですから、王様には重宝されますし、それだけでなく、自分の家族やしもべたちからも愛され、敬われていたと思うのです。たとえば、3節に出てきた、イスラエルから捕虜として連れてこられた娘のことばや、13節のしもべたちのことばを読むと分かります。

仕える者たちからも、ナアマンのことを想う、愛にあふれたことばを引き出したのは、慕われていた証拠だと思います。地位のある立場にありながら、人々に愛され敬われる人格者だったのでしょう。


また、5節を見ると、彼が持っていた財産は莫大だったと想像できます。新改訳聖書の脚注を見て計算すると、彼が持って行った贈り物は、銀340キロ、金68キロ!?驚くような分量です。王様が持たせてくれたものもあったでしょうが、もしこれが純金だったら、今の価値で言えば約16億円!これが純金でなかったとしても、びっくりするほどのものを彼は持っていました。まさに人生の成功者と言えるような人です。

2.が、実は

ところが、この人はツァラアトという皮膚の病気を患っていました・・・。
ツァラアト:「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」を描写しています。(第3版「あとがき」より)ですから、特定のひとつの病気を指すものではありません。様々皮膚の異常状態をまとめて現わしていました。「物の表面」とあるように、布や皮のカビや、家の壁に出てくる変色やカビのような現象もツァラアトと呼ばれていました。聖書の律法では、ツァラアトと判断されると、コミュニティーの外に住み、人々から離れて暮らすことが求められました。


能力も、立場もあり、経済的にも豊かで、人間的にも立派で、さぞかし素晴らしい人生を送っている人と思いきや・・・人知れず、悩んでいることがありました。いや近くの人たちはきっと気づいていたでしょう。ナアマン将軍は重い皮膚病に苦しめられていたのです。彼の輝かしい人生に暗い影を落としていたのがツァラアトだったのです。

この世界にも暗い影が広がっています。今の時代は、とても豊かで便利になったと言われるけれど、どれほど便利になっても、戦争や飢餓や貧困がなくなりません。ここまで医学が発達しているのに、コロナのように、世界中が一気に不安や恐れに支配されることも起こります。研究が進み、様々な技術が発展しているのに、自然の力の前では人は無力であることを痛感させられます。


100%完全な世界なんてないのです。罪がこの世界に入ったからです。

ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り・・・」

罪があらゆる人々を傷つけ、苦しめ、絶望させています。


人間もそうです。完全無欠の人なんていません。その人自身でなくても、家族や、その人をとりまく環境に問題があったりします。誰もが様々な痛みや悲しみを経験します。何か欠けている、傷んでいる状態です。


そして、その解決方法を知らないというのが多くの人たちの現状だと思います。ローマ3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」

とあるように、私たち自身が一人残らず罪人だからです。


ナアマンは、国中の腕の良い多くの医者に診てもらったでしょう。けれども良くなりません。どうしようもなかった。人間のあらゆる試みも、彼に癒しや解決を与えませんでした。

3.救い、癒しを得る—―意外なやり方で

そんなナアマンですが、妻に仕えていた若い娘の奴隷のことばをきっかけに、新しい道に踏み出すことになりました。

「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その肩がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

一人の奴隷の、主人を想う言葉を受け取ったナアマンは、アラムの王様に言って紹介状を書いてもらい、たいそう立派な贈り物を携えて、馬と戦車で仰々しく、敵国イスラエルの王のところに向かったのです。


これはアラムと北イスラエルという二つの国をまたがった動きであり、本人だけでなく、王様たちにとっても大きな注目と期待が寄せられていたと想像します。


 ところがイスラエルの王様は、アラムの王様からの手紙を読み、激しく怒ります。自分がツァラアトを治せと言われていると受け取ったからです。実際、奴隷の娘は「預言者のところ」に行くように勧めたのですが、そうは書いていなかったようですね。私たちにとってもこのようなミスコミュニケーションはありがちだと思います。それによって不必要な衝突を生んでしまう事は多々あります。


 でも神様はそこにも介入してくださいます。「神の人エリシャ」が助け舟を出し、元々ナアマンが行くべきところに導かれていくのです。


 そもそも、神の人、預言者エリシャはどんな人かというと・・・BC850年ごろから、預言者としての活動を始めました。先輩エリヤに替わって北王国イスラエルで仕えた偉大な預言者の一人であり、偶像バアルを拝む人々との戦いを展開しました。彼は約50年間、4代の北イスラエルの王様たちに仕え、その生涯の最期(Ⅱ列王記13:14~)には王様が見舞いに来て泣き伏したなどと記されていることから、国だけでなく、王にとっても大きな影響力を持つ存在だったことが伺えます。


そんな預言者エリシャなのですが、敵国の将軍ナアマンが威儀を正して、馬と戦車でやってきた時の様子が驚きです。

10節「エリシャは、彼に使者を遣わして言った。」

なんと彼は、客人が入口まで来ているのに、玄関から出てきて歓迎することもなく、人を介した「伝言」で、「ヨルダン川に行って七回身体を洗いなさい」と指示をしました。


皆さんがナアマンだったらどう思うでしょうか。どう反応しますか。仮にもアラムの国では王様に重んじられている将軍です。この場にも大勢のしもべを引き連れてやってきたのです。


11節を見てください。彼は激怒しました。遠いところから王様の紹介状と相当な贈り物を携えてやってきたのに、自分が予想していた対応はなく、おまけに提示されたのが想像していた治療方法ではなかったからです。このことは彼のプライドを大きく傷つけたことでしょう。川に行って身体を洗う?!そんなの治療になるのか!?


12節の彼のことばから察するに、彼の国の川の方がイスラエルの川よりもずっときれいなのか、立派なのか・・・ともかく、指示された方法はあまりにもばかげている、簡単すぎる!と思いました。


神様が私たちに与えてくださる癒し、救いも同じようにとられます。救われるためには、善い行いを積み重ねていくこと、大きな犠牲を払うこと、と思いきや、「信じなさい。そうすれば救われる。」と言われる。そんな簡単なことでいいのか。それは安っぽくないか。

みことばは言います。

1コリント1:23-24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」


使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」


聖書ははっきりと、十字架にかけられたイエス様を信じることで私たちは救いを受けると言います!確かに、救い主が十字架にかかって死ぬという神様の救いの計画は人間の目で見れば、おかしい、納得がいかないと言うかもしれません。でも神様が私たちのために用意してくださった救いは、そのようなものです。お金を払って得るものでも、善い行いの結果与えられるものでもありません。


 ナアマンの方に話を戻しましょう。絶望的な苦しみの中にいたナアマンは、一度はその場を去りました。納得がいかなくて、憤って帰途についたのです。


 でもそんな時、彼を敬愛するしもべたちが言葉を発しました。

13節「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 確かに!と思います。救われるためには、癒されるためには、ハードルが高いことをする必要があると言われた方が納得しやすいのかもしれません。この言葉を聞いたナアマンは、癒しを受けとるために、しもべたちの勧めを聞いて受け入れ、神のみことば(預言者の言葉)に従いました。


 みことばはあっさりとナアマンがその言葉に従った様子を書き記します。しかしながら、これはなかなか難しいことだと思いませんか。権威ある立場の人が、しもべのアドバイスを聞いて川に一人下りて行き、身体を洗うという行動に出るのは、勇気が要ったでしょう。多くの贈り物を運ぶ家来たちが同行していたわけですから、彼らが注目する中、水辺に行き、病に侵された肌を晒し、預言者の言葉通りに7回洗ったということです。その時のナアマンの心中は、どんなだったでしょう…。


 しかしその行動のゆえに、彼のからだは「元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです!自分の想像とは違っても、ただ神さまの言葉を受け入れて従うことが、救いを受ける道なのです。


 こう考えると、すべてが神さまの計画の内にあったことを思います。彼がイスラエルの敵であるのに数々の戦いで勝利していたこと、でもツァラアトを患っていたこと、イスラエルの捕虜の娘が彼の妻に仕えていたこと、その娘が預言者を紹介したこと、などなど、彼自身は自覚していなかったでしょうが、すべて主なる神さまが導いておられた事で、ナアマンに本当の救いをもたらす手段だったと言えます。

4.あなたの務め

今日、最後に注目していただきたいのは、ナアマンの妻の元で働いていた若い娘です。彼女は、名前すら出てきません。捕虜として異国の地にいたことくらいしか知られていない、ひとりの女の子が、ナアマン将軍の癒しのために大きな役割を果たしました。もちろん、彼女が癒したのではなく、彼女は、神さまの力だけがナアマン将軍の重い病気を癒せると知っていて、それを伝えただけです。


そんな風に、救いのカギになるものは、小さく、目立たないものかもしれません。

私たちもある意味、この娘のように、小さく、目立たない存在と言えます。社会で大きな影響力を持つようなものではありません。けれども、この世のどんなものももたらすことのできない、本当の癒しや救いがここにあるということを指し示すことはできます。


 あなたに与えられた務めは、十字架にかけられたイエス様こそ、本当の救いであり、あなたの罪を赦すことのできる唯一の方であり、悪に打ち勝つ力を与えてくださる方だと紹介することです。

祈り:

主よ。みことばを感謝します。私たちは見ている分には分からないけれど、

あらゆる人が人生で様々な問題や悩み、苦しみを抱えています。

その原因が「罪」であることを教えてくださり感謝します。

そして解決方法も教えてくださり感謝します。

神さまのみことばに従って、イエス様のところにそれを持ってくるならきよめていただけると知りました。主よ、まだそのきよめを、癒しを、救いを受け取っていない人がいるならば、与えてください。

また、すでに受け取っている私たちは、名もなきひとりの娘のように、「ここに救いがある」と人々に紹介する勇気を与えてください。

2026年9月3日 星期四

重溫主的救恩

 



哈巴谷2:20

題目:重溫主的救恩

聖經:申命記32:1-7 約翰14:25-26

新聖詩:147,298,391

啟應文:1

一、前言

大家平安!

我們有聽過「重溫舊夢」,那是指一個人回憶或再次經歷過去的情景與美好的事情,也可以指一個人與失和或失去聯絡的老朋友再次聚首、重修舊好。

 

「重溫上帝的救恩」,是我們再次回想,經歷過去對我們拯救的情景,

或是我們過去失去與上帝的聯絡,希望再一次來重修與咱們的主和好的關係。

二、聖經上讀記載

 在聖經中有甚麼教導呢? 申命記中有提到摩西提醒以色列百姓要「記得上帝的救恩」,就是在歷史中,上帝如何來拯救以色列人的祖先們出埃及,通過歷史的敘述再一次地喚醒迷途的人可以返回。

 

在舊約的聖經當中有敘述上帝對祂的百姓所行的神蹟,這一些的記載好像是信仰告白:「你們要十分謹慎地保守,而不要忘記你們眼前的一切,在你們有生之日,也不要讓這一些是的記憶消退;而要把他們傳給你們的兒女,以及他們的子子孫孫。」

 

摩西知道百姓們常常走錯路,心中徬徨。所以對他們說了這一些重要的事情。摩西寫了一篇詩歌,傳給他們,教導以色列人吟唱。這是一首以色列的簡短歷史的詩歌,讓他們不要忘記自己的錯誤,並使得他們知道,只有信靠上帝才有盼望。

 

 以色列的子子孫孫在每年都以吟唱摩西的詩歌來紀念上帝的救恩。

甚至於在以色列人從巴比倫歸回自己的故鄉的時候(西元前538),以斯拉和尼希米非常注重這一些摩西所流傳下來的宗教儀式的傳統。

 

「以斯拉站在眾民以上,在眾民眼前展開這書。他一展開,眾民就都站起來。以斯拉稱頌耶和華至大的上帝;眾民都舉手應聲說:「阿們!阿們!」就低頭,面伏於地,敬拜耶和華。」(尼希米記8:5-6)

 

他們同心重建聖殿,以斯拉宣讀律法書,共同和百姓一起到上帝面前來,目的就是要與以色列百姓一起記得主的救恩,從錯誤當中返回。

 

三、學習聖經度過危機

  藉著聖經,我們對自己的信仰有所反思,我們回想看看:上帝的救恩如何幫助我們呢? 古代的出埃及是以色列人脫離困境的事件,我們所面對困難的事情是甚麼呢? 再一次喚醒我們,記得數算上帝的救恩。

 

 我們再想一想,「信仰」對於我們的意義? 信上帝的人在生活上也會遇到困難,當我們遇到困難的時候,會用甚麼態度來面對呢?

 

 我們有困難時,請先安靜下心來,不要用不正確的方式來解悶,例如喝酒或是吸菸,因為這樣子沒有解決問題,還造成了自己身體健康的損害。我們要找父母,老師,長輩來做傾談。不要怕為難,當要面對問題,踏上解決問題的道路上,這樣子才是勇敢的人。

 

 我們可以祈禱,同心聆聽上帝的話,祈求主耶穌幫助我們開路,指引我們行走的道路。信心的話如此說了,『那麼,信心是什麼呢?信心是對所盼望的事有把握,對不能看見的事能肯定。』(希伯來書11:1)

 

「對所盼望的事有把握」,例如一個人生病去醫院治療,雖然身體還是會痛,無力,但是,你心裡「把完全恢復, 重獲健康」 當作靈魂的錨,讓心穩定下來。

 

「對不能看見的事能肯定」,雖然目前的檢驗報告還沒有恢復正常,但是憑著信心配合醫囑,努力復健,這份的信心成為我們心中戰勝疾病的力量。

 

四、共同回憶上帝的救恩

 初代教會信徒們常常聚在一起,共同回憶主耶穌的救恩。

但保惠師,就是父因我的名所要差來的聖靈,他要把一切的事教導你們,並且要使你們想起我對你們所說的一切話。(約翰14:26)

 

他們也用朗誦詩篇來做為素材。 例如詩篇106篇有提到,「以色列百姓多次背叛上帝,他們忘記了上帝的作為,忘記上帝在埃及顯現神蹟,在紅海行神蹟拯救他們」等等。

 

 教會兄姊的彼此提醒,基本上就是要本身,以及後代子孫記得,不要去做違背上帝的事情,要行在上帝所喜悅的道路上。

 

 我們知道猶太人以摩西五經裡面的故事來教導孩子,他們在吃飯之前,父母會以簡單的問題問孩子,「如果你是故事裡的角色,你會怎麼做?」這一種的簡單問答,就是在實際生活中體驗了上帝的同在。

 

 弟兄姊妹們! 上帝給我們彼此在一起切磋信仰成長的機會,我們有時候在情緒上會有困擾,或是人際交往上引起的不安。這是人人都會有的困擾,不要放棄,聖經的話跟我們如此說了。

 

 「應當一無掛慮,只要凡事藉着禱告、祈求,和感謝,將你們所要的告訴上帝。上帝所賜、出人意外的平安必在基督耶穌裏保守你們的心懷意念。」(腓立比4:6-7)

 

五、結語

 重溫上帝的救恩不是只有停留過去,乃是在我們每一天有時間,稍停下來,聆聽主的聲音,環看四周,重新再出發。

主是信實的,祂必定是指引我們的道路。

聖經如此說:「你當追想上古之日,思念歷代之年;問你的父親,他必指示你;問你的長者,他必告訴你。」(申命記32:7)

讓我們同心來再一次體驗上帝的救恩。

 

祈禱 主我們感謝您的恩典,讓我們再一次來體會主的救贖。

我們有時候離主遠遠的,求主憐憫。提醒幫助我們,與主更加的親近,感恩 奉靠主耶穌的聖名 阿們。

萬事有定期

  題目 : 萬事有定期 經文 : 傳道書 3:1-8 新聖詩 :2,613,386 起應文 :33 一、前言。   人生在世間上生活著,有什麼事是重要的呢 ? 從出生,經過一生,最後走到生命的終點。怎麼樣子的終點才是值得我們追求的呢?時間到底是什麼? ...