2026年4月22日 星期三

主耶穌賜下一條新誡令

 

宣召:詩篇149 1

題目:主耶穌賜下一條新誡令

約翰福音13 31~35

聖詩:14 1371245, 398

祈願文: 60

 

兄弟姊妹平安!

今天我們用「主耶穌賜下一條新誡令」這一個題目來一起分享

這一條新的誡命就是「彼此相愛」。願我們來學習彼此相愛的信仰功課。

 

一、前言:

 「誡命」是以色列人在古代的時候就有,最有名的是十誡。那是摩西受上帝啓示而得到的,寫在石板上,提到人與上帝的關係,人與人之間的關係。從十誡引申到以色列人的社會生活上的綱領,這是以色列人很重要的生活原則。有關誡命的記載,在利未記裡有詳細的記載。

 

 約翰福音書四章有記載耶穌遇到撒瑪利亞的婦人,談論到有關於在甚麼地方禮拜的事。耶穌當面跟她講,人敬拜上帝「要用心靈真實來敬拜」|(約翰4:23-24)

所以,只是用表面上的說,要到哪裡敬拜? 這是沒有什麼意義的,真誠的敬拜才是正道。主耶穌是我們的模範,願我們學習主耶穌的愛心來彼此相愛。

 

二、耶穌臨別的囑託

 今天看到的是《聖經》中非常重要的一段——約翰福音 13:34。這段話出現在耶穌與門徒最後晚餐的時刻,也就是他即將受難之前,帶有很強烈的「臨別囑託」意味。

 

 耶穌說:「我賜給你們一條新命令,乃是叫你們彼此相愛;我怎樣愛你們,你們也要怎樣相愛。」

 

 這裡的「新」其實不只是指「從未說過」,而是指一種更深層、更具體的愛的標準——

不是一般人際間的友善,而是以耶穌自己的愛作為榜樣。這種愛包含:

 

犧牲的愛:耶穌即將為門徒、為世人捨命

無條件的愛:不是因為對方得,而是選擇去愛和關懷人。

持續的愛:即使面對背叛(像猶大)或不理解,仍然愛到底

 

 在當時的情境裡,門徒即將面對失去耶穌同在的現實,這條誡命就成為他們彼此連結、也成為外人辨認他們身份的標誌(接著第35節提到:「你們若彼此相愛,眾人因此就認出你們是我的門徒了。」)。

 

三、耶穌因為愛而來到世界上

 耶穌因為愛世人,所以他來到世界上。

對於門徒來說,耶穌的愛就是他們的榜樣。

這個誡命是新的。耶穌是如何來愛這一些門徒們?用簡單的一句話說,就是耶穌接納他們。耶穌接納他們原來的面貌。約翰13章,在耶穌講了即將離別的話之後,彼得表現出他的勇敢,但是,耶穌也指出了他的軟弱,並且接納他了。(參考約翰13:37-38)

 

不僅如此耶穌所說的有更深一層的意義,

 

 耶穌教導門徒,肯定他們,不僅是愛自己,還要去愛其他的人。這不僅是對門徒的挑戰,也是對於我們的挑戰。以人的本性來說,在愛其他的人之前首先要愛自己。

 

實踐耶穌的話,正確來說,就是要先認識自己,愛自己,若是沒有愛自己,就沒有辦法去愛別人了。

 

 我們有時候會討厭自己,感到自己不如人,因此而而產生了心裡自卑。因為失敗而自己很痛苦。倘若自己沒有辦法接納自己的缺點,而且從那一種困境當中得到耶穌的幫助,再爬起來,再修正,並且肯定自己,就無法用行動去愛其他的人的。

 但是,好在有耶穌,讓我們有機會來找到一條新的道路,那是可以愛自己,而且有能力去幫忙其他人的機會。

 

四、「在主裡面」彼此相愛

 耶穌命令門徒們彼此相愛,耶穌向門徒們說,『你們若有彼此相愛的心,眾人因此就認出你們是我的門徒了。』( 約翰13 35

 兄弟姊妹們! 這一句話也是主耶穌給予我們珍貴的吩咐。「彼此相愛」這一句話若是要實現,不是那麼簡單。

 

 主耶穌所說的愛世人。這個「愛」,不是只有人際之間關懷的愛,而是一種發自內心的慈愛。因為耶穌以我們的生命為尊貴,愛惜世界上的人,祂不要罪人沉淪,耶穌有這一種憐憫的心,發自內心的慈愛,因此,祂自己犧牲了。

 

  我們知道,在現實的生活上用人的方法是困難去達到耶穌所說的「彼此相愛」,但是,「在主裡面」就有辦法,因為上帝將祂的赦免的愛,這個恩典賞賜給我們了。兄弟姊妹們! 讓我們常常仰望耶穌,學習耶穌。就是「在主裡面」,參與教會的生活來學習成長。

 

  教會不只是我們每週聚集的地方,也不只是一些活動的集合。教會,是上帝賞賜給我們的一個信仰共同體。「在主裡面」,就是在教會的這個共同體當中,有一個最重要的記號,就是愛——彼此相愛的心。

 

  這樣的愛,不是口號,而是在日常生活中慢慢學習出來的。我們在教會裡彼此相處,難免會有不同、會有磨合,但正是在這樣的過程中,我們學習忍耐、包容、饒恕,也學習如何真正去關心一個人。這是一個需要時間的過程,是一種耐心的學習。

 

 當我們這樣活出來的時候,世界上的人就會看見不一樣。他們不一定先聽見我們說了什麼,但會先看見我們怎麼彼此對待。正如主耶穌所說的,人若看見我們彼此相愛,就會認出我們是祂的門徒。

 

 

五、結語

 舊約的經文上所記載上帝的誡命,耶穌賦予新的意義。有關敬拜,就是要用真誠的心靈來敬拜。今天我們看到其中的一條誡命,耶穌給門徒們一條新的誡命,就是︰「你們當要彼此相愛。」

 這一條誡命不是只有掛在牆壁上好看的,而是在生活上,在教會的信仰生活裡面,要彼此勉勵的話。

 耶穌的愛就是我們要學習的榜樣。讓我們用耶穌的愛來彼此相愛,互相學習,互相勉勵,願耶穌的榮光因我們而得到榮耀了。

2026年4月15日 星期三

上主親自牧養以色列

 



宣召:詩篇105:1-2

題目:上主親自牧養以色列 

聖經:以西結書34:11-16

 聖詩:2021-4, 322, 396

 應:55

 一、前言

弟兄姊妹,大家平安!

 今天我們要一起分享一個熟悉卻深刻的主題——牧者與羊群的關係。

 以色列民族原本是遊牧民族,「牧羊」是他們生活的核心經驗。因此,在聖經中,「牧者」不只是職業,更是一種領導與照顧的象徵。

 大衛原本是牧羊人,後來被上帝揀選成為以色列的君王。因此,以色列的君王與領袖,常被比為牧養百姓的牧者。

 同樣地,聖經也多次用「牧者」來形容上帝。例如詩篇80:1說:

「領約瑟如領羊群的以色列牧者啊,求你側耳而聽!」

 然而,在以西結書341–11節中,先知以西結嚴厲指出:當時的領袖失職了。

 他們只顧自己,不顧百姓;

只享受資源,卻不照顧軟弱的人。

 經文說,他們:

 沒有醫治病弱的

沒有尋找失喪的

沒有帶回被趕散的

沒有包紮受傷的

(參34:2-6

 

這樣的領袖,也被先知耶利米同樣責備(耶利米23:1-4)。

 因此,上帝宣告:

祂要親自介入,取代這些失職的牧者——

上帝要親自牧養祂的百姓。

 二、上帝要親自牧養祂的百姓

 這是整段經文最重要的信息。

 當地上的牧者失敗時,上帝沒有放棄祂的羊群,反而親自成為牧者。

 以西結書34:15-16說:

 「我要親自牧養我的群羊,使牠們得以躺臥。

失喪的,我必尋找;被逐的,我必領回;

受傷的,我必包紮;有病的,我必醫治;

我必秉公牧養牠們。」

 這段經文讓我們看到上帝的幾個特質:

 

1. 主動尋找

 上帝不是等人來,而是主動尋找失喪的人。

 2. 溫柔醫治

 祂關心受傷與軟弱的人,親自包紮與醫治。

 3. 公義審判

 祂不只是慈愛,也是公義的主。

 34章中,也提到上帝要在羊與羊之間施行審判。

 那些「肥壯的羊」自私地踐踏草地、攪亂水源,使其他羊無法生存(34:18-19)。

 這代表在群體中,有些人因自私而壓迫他人。

上帝說:祂必親自審判,恢復公義。

 最後,在34:31,上帝宣告一個美好的關係:

 「你們作我的羊,我也是你們的上帝。」

這是一個重新建立約的關係——

不只是個人得救,更是整個群體被更新。

 三、這段經文對我們的

① 我們如何看待「領袖」?

 今天的世界,我們仍然看到類似的問題:

有些掌權者只為自己,不為人民。

 聖經提醒我們:

真正的領袖應該有憐憫的心,能「人飢己飢,人溺己溺」。

 新約中也提到,掌權者是神的用人,應當行善、保護百姓(羅馬書13章)。

 因此,我們也要為領袖禱告,並且在自己的位置上,學習成為一個負責任、願意付出的人。

 ② 上帝必施行公義

 上帝不忽略不公義的事。

 在以西結書中,祂審判「肥羊與瘦羊」。

在新約中,耶穌也提到類似的比(如馬太福音中的分別)。這提醒我們:

上帝看重我們如何對待他人。

 我們是否:

 願意分享?

願意扶持軟弱?

還是只顧自己?

③ 我們也被呼召成為牧養的人

 在約翰福音21章,主耶穌對彼得說:

「你餵養我的羊。」

 這表示:

每一位基督徒,都有某種程度的牧養責任。

關心身邊的人

扶持軟弱的人

尋找迷失的人

 因為每一個人,都是上帝所愛的羊。

 

四、結語

 從以西結書34章,我們清楚看見:

上帝是一位關心百姓、親自牧養的神。

 主耶穌也說:

「我是好牧人,好牧人為羊捨命。」(約翰福音10:11

 祂不只是帶領我們,

更為我們付上生命的代價。

 弟兄姊妹,

我們既然屬於這位好牧人,

 就讓我們:

 跟隨祂

倚靠祂

與祂同工

 因為若沒有上帝的祝福,

我們所做的一切都是徒然。

 願上帝的恩典,像春雨一樣滋潤我們的生命,

使我們結出美好的果子。

 祈禱

 親愛的主耶穌,

感謝祢成為我們的好牧人,

在我們迷失時尋找我們,在我們軟弱時扶持我們。

 求祢幫助我們,

不但領受祢的愛,也願意去關心他人,

成為合祢心意的人。 

願祢的恩典常與我們同在。

禱告奉主耶穌基督的聖名,阿們。

2026年4月13日 星期一

カナの結婚式ー奇跡を見る者に

 

「カナの結婚式ー奇跡を見る者に」

聖書朗読▼ヨハネ2111

1.それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。

2.イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

3.ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

4.すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。

5.母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

6.そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。

7.イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

8.イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持っていきなさい。」彼らは持って行った。

 

9.宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、

10.こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

11.イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を表わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

おはようございます。先週は復活の主を喜び祝うイースターでしたね。私は、春のキャンプを終え、イースター前日はhi-b.a.75周年の記念集会だったので、ドタバタと忙しく過ごしていました。3月後半はだいぶ疲れが溜まっていたようで、体調を崩しましたけれど、それでも時を越え、国を越えてhi-b.a.の始まりを振り返り、神様の恵みの豊かさを味わうイースターとなりました。皆さんはいかがでしたでしょうか。

 

今日読んでいただいた箇所は「カナの婚礼」として有名なお話です。特に、イエス様の最初の奇跡と言われていて、今でも教会の結婚式では司式者が「主イエスが初めにカナで結婚式を祝福されたように…」と言ったりしますが、ガリラヤ地方にあるカナという町で行われた結婚式が舞台になっています。

 

結婚式

 結婚式は国によって結構スタイルが変わるものです。といっても私が出席したことがあるのは日本の結婚式と、この教会で挙げられた結婚式、またアメリカの友人の結婚式くらいなのでそんなにいろいろ知っているわけではないのですが…。

 

 

 時代によってもやることは変わってきますし、同じ国で挙げられる式も個性豊かだったりします。私は昔、学生の頃、結婚式場でアルバイトしていたことがあったので披露宴の給仕も経験して、しきたりやマナー、また新郎新婦の様々なこだわりに、なんだか面白いなあと思った記憶があります。

 

 

 いずれにせよ、そこには喜びがあります。新郎新婦だけの喜びではありません。集まった皆さんが喜びにあふれるのが結婚式です。みんなで集まって、食べ、飲み、踊り、喜びを分かち合うのです。

 

 聖書が書かれた国、イスラエルでは結婚のお祝いはなんと1週間続いたそうです!

この時、ある人の結婚式にイエスの母マリヤが世話人の一人として出席していました。そこにイエス様と弟子たちも招かれたのでしょう。

不測の事態

 ところが!です。嬉しく楽しく喜ばしい、幸せムード満々のはずの場所に、予想していなかったことが起きました。パーティーを盛り上げるツールの一つ、ぶどう酒がなくなった!という事態です。結婚式にはハプニングはつきものですが、これは困った事態です。

 

ex.ちなみに私の結婚式のハプニングは、フラワーガールやリングボーイがセッティングできていなかったのに、時間になって奏楽者が前奏を弾き始めてしまったので、前奏がいくら続いてもなかなか花嫁が登場しなかった!)

 

 ぶどう酒は、人の心を喜び楽しませるもの、結婚式には欠かせない喜びの象徴だったのに、それがパーティーの途中で切れてしまったのですから、困りました。

 

 

 

 大勢が集まるイベントでは人数を想定して食べ物や飲み物を準備するものです。私も先日のhi-b.a.75周年記念集会で食事などを整えなければならなかったので、参加人数の把握や経済面での調整など、やることが多岐に渡って大変でした。なので、この時の状況は想像しやすいです。きっと招いた客の分は用意したつもりだったけれど、想定外にぶどう酒をたくさん飲む人たちがいたのでしょうね。

 

 

 そこで、世話人の一人だったマリヤは困ってイエスのところに行ったのでしょう。「ぶどう酒がありません」(v.3)それに対してイエスの対応はv.4)「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」

 

 なんだか冷たくないですか?!柔和で愛にあふれた方という印象のイエス様とはイメージが違うと感じるのは私だけではないはずです。

 

 皆さんは自分の母親に対してどう呼びかけるでしょうか?

 「女の方」―日本語に訳されたこのことばは、親子とは思えない、よそよそしさを覚えます。でも実はこの呼びかけは、尊敬や敬愛を示す言い方なのだそうです。また「あなたはわたしと何の関係がありますか」という言葉は「あなたと私の関心は別なのですよ」ということです。

 

 ですから、マリヤもイエスの言葉に腹を立てることなく、v.5のように言ったのでしょう。

 

 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

問題解決!

 そんなマリヤの言葉のあと、イエスは行動を起こしました。(v.7)水がめを水でいっぱいにするようにとの指示を出したのです

 

 v.6を見るとそこには石の水がめが6つありました。1つが二あるいは三メトレテス、つまり80-120Lですから、結構な大きさです。これを満たすためには時間も手間も労力もかかったでしょう。2L入りのペットボトルに水を入れ、両手に持ち、石がめに運び入れるとしても2030往復しなければなりません。それを6本ですから!給仕の者たちも「なぜこんなことを?」と思ったでしょう。ぶどう酒がないというのに、水がめに注いでいるのは「水」なのですから。

 

 そしてイエスは次にその「水」を汲んで宴会の世話役に持っていくようにと言いました。そのことばに従って「水」を運んだ給仕の者たちは・・・奇跡を見たのです!確かに自分たちが汲んだ「水」を飲んで、世話役はその味を「良いぶどう酒」と言ってほめ、花婿を呼んで告げるほどでした。

 水がいつぶどう酒に変わったのか、聖書は記していません。でも、ただの水が、宴会の世話役のところに行くときにはもうすでに芳醇なぶどう酒に変化していたのです。まさに奇跡です!

 

私たちは

 私たちにも、そんな不測の事態が起こることがあります。想定外のことが起こったり、願っていない悪いことが私たちを襲ってくるのです。驚き、慌てふためき、恐れ戸惑うかもしれません。

 

 でも、そういう時こそ、マリヤのようにイエスのところに持っていきましょう。祈ったのに、願ったのにすぐに状況が改善しないとしても、です。

 

 イエスのところに行けば、味気ない水が、芳醇なぶどう酒に変わるのです!どうしようもない事態が最善へと変わるのです。喜びのない人生、意味がないと感じる人生が、喜びにあふれ、意味を見出す人生へと変わっていきます。イエスが結婚のお祝いの場にいらしたように、私たちの人生にも来てくださるのです。この方を無視して、私たちが自分の力で不測の事態、問題を切り抜けようとするのは無理だし、もったいないことだと思いませんか。

 

 

 イエスは「時」が来たら、ちゃんと働きを私たちに分かるように見せてくださいます。だから安心してください。祈りは必ず聞かれるのですから。

 

世話役のようではなく

 さて、この場に居合わせて美味しいぶどう酒を味わった世話役に目を留めてみましょう。彼は感動するほど美味しいぶどう酒を飲みましたが、これが「奇跡」であるということは味わえませんでした。イエスの力の一端に関わったのに、気づかなかったのです。

 

 

 実際、彼のような人はこの世界に多くいます。世界のあちこちで神様のみわざが行われているのに、恵みをいただいているのに、それを知らない、認めない、感謝をしない、無視をする・・・そんな人々が大勢います。

 

 先日のhi-b.a.75周年記念集会には100人以上の方が渋谷のhi-b.a.センターにお集まりくださいました。hi-b.a.の初期の卒業生から、元スタッフ、初代宣教師の娘たち、現役高校生まで。私は、自分がスタッフの子どもとして育ったので、子どもの頃にお世話になった人から、今自分がお世話している高校生まで、様々な方々を前にして胸がいっぱいになりました。

 

 神様が日本を憐れみ、若い青年たちに志を与え、日本に送り、宣教の働きがスタートし、それが多くの人によってここまでバトンをつないできた、そのプロセスをたどるような時間だったからです。先輩たちや今を担う私たちの苦労を思い起こしましたし、自分が気づかず、見聞きしていなかったところでも働いて来られた神様と先輩たちの祈りと働きの実を思いました。

 

 そうです。神様のみわざは今も、これからも、続いていきます。私たちが気づかなくても、忘れていても、です。

 

この賛美をご存じでしょうか。

♪♪主は道を 日々造られる

何もないように 思える時でも

 

主は御手で 御元で支え

新しい明日へ 主は道を造られる

 

 何もないように思えても、偶然に過ぎないと思うことでも、あの人が素晴らしいからだ、この人のおかげだとみんなが言うことであっても、私たちは、水をぶどう酒に変えたのは主だということを知っていた給仕の者たちのようでありたいです。

 

 どうやって変えたのかとか、「すべて」を知ってはいないけれど、見ていないけれど、そこに主が働いておられることを覚えて頼っていきたいのです。

 

 問題のない人生などありません。誰もが様々な問題・課題・悩み・葛藤を経験します。そして、誰もがそれを、イエスのところに持っていっていいのです。私たちは主の「奇跡」を経験し、主イエスを信じるものです。

結 

 あなたの人生、他でもないあなたしか生きられないかけがえのない日々は、計画通りに行くとは限らず、何が起こるか分からないドラマティックな人生でしょう。どうか、主イエスに頼って、喜びと意味を見出す日々になりますように。

主耶穌賜下一條新誡令

  宣召:詩篇 149 : 1 題目 : 主耶穌賜下一條新誡令 約翰福音 13 : 31~35 聖詩: 14 , 137 ( 1 , 2 , 4 , 5 ) , 398 祈願文: 60   兄弟姊妹平安 ! 今天我們用「主耶穌賜下一條新誡令」這一...