2026年3月30日 星期一

新的生命

 

題目:新的生命

 經文

◎「所以,若有人在基督裏,他就是新造的人,舊事已過,都變成新的了。」

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」— コリントの信徒への手紙二 517

◎耶穌對她說:「復活在我,生命也在我。信我的人雖然死了,也必復活。」

「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」— ヨハネによる福音書 1125

 

兄弟姐妹們大家平安!

願復活的主耶穌的平安和歡喜,與兄弟姊妹與家族每一個人同在。

今天我們在這裡舉行復活節省墓的禮拜, 來緬懷我們所敬愛的長輩們,他們先到上帝那裡去了,但是,主的話告訴我們,我們有一天我們將要在天上見面,這是主耶穌所應允我們的。

 

 在復活節的時候,我們一起來省墓禮拜,一起讚美主、因為主耶穌確實復活,如今祂在天上保護我們。我們在這裡慶祝主耶穌復活、再來一次思考生命的意義。

 

 我們通過今天的聖經來看分享有關新的生命。

耶穌說,『我是復活,我是生命,凡是信我的,他必得著新的生命。』

耶穌在人生的當中,就是來傳講有關生命的故事,祂就是上帝所差遣來世界上,為了要幫助貧窮的人,為了要拯救罪人,為的就是要讓過失的人有重新的機會。

 

 祂傳講的就是上帝愛世人」,這一個很要緊的事,拯救人的生命,領導人走向人生的光明,這是一個有關生命的故事。耶穌犧牲了自己被釘在十字架上死亡了,最後,祂從死亡的當中復活了。這也表示說,耶穌是充滿了力量的,是勝過對一個世界死亡的權勢,祂復活的力量能幫助我們重新再站起來。

 

  如同在哥林多後書五章17節這邊所記載的,「所以,若有人在基督裏,他就是新造的人,舊事已過,都變成新的了。」

我們是通過了耶穌基督他能讓我們有一個新的生命,我們的生命被創造的,這是一個好的消息,我們人生當中有犯錯誤的時候,但是,耶穌基督他的生命能幫助我們來改變。

 

  讓我們可以從復活的主耶穌那裏得到一個新的生命,一個被創造的重新的生命,把古舊的自我捨去、有新的生命以及新的盼望在我們心中成長。

 

  我們跌倒的時候,重新開始再爬起來,因為我們相信主耶穌必定能來幫助我們,從那一個很受傷的情況當中在起來。如同一位醫生他拿了藥來抹在我們的受傷的地方,能讓受傷的地方可以得到痊癒,我們的身體能得到健康,我們的心靈可以得到一個重新開始的機會,這也是在我們的人生當中,一個重新的開始。

 

  感謝上帝的恩典,今天讓我們在這一個復活節的時候,再一次思考有關生命的意義,耶穌復活生命勝過了死亡,他說,「我是復活,我是生命」。是的 ,如同祂所說的,耶穌今日祂仍是在支持幫助我們,帶給我們生命的希望!願我們堅持著這希望,踏出新的一步。

 

  讓我們可以再一次回到我們的現實的生活生活當中,這一周東京我們看到櫻花滿開了,非常漂亮。寒冬過去了接著是春天來訪, 萬物恢復了新生命。感謝主!主耶穌復活,讓我們的內心帶來特別的新的生命的祝福。

 

  親愛的兄弟姊妹!在聖經裡面有記載著很多類似這樣子的事情,是生命的更新的故事,願我們每一個家庭都來閱讀,從閱讀聖經得到生命的喜悅,並且都能得到上帝的恩典慈愛。

祈禱 感謝主!

今日我們在這裡聚會,願主保守我們,願復活的歡喜與平安永遠和兄弟姊妹們同在。從今時直到永永遠遠。 奉靠主耶穌的聖名 阿們

 

主設立聖餐

 

宣召:詩篇62:1-2

題目:主設立聖餐」「主による聖餐の制定」

 

聖經:馬太26:26-29

聖詩:88(1-4),365,581,397

:9

 

 

大家平安!

今年的3/29棕樹節,在紀念主耶穌受難之前,我們今天我們一起來恭守聖餐,來紀念主耶穌的救恩。

聖餐的場景起初是在2000多年前所發生的事情。歷代信徒工守聖餐,緬懷主恩,這聖餐是象徵著信徒與主所立的新約,罪得赦免並領受恩典。

今天我們在受難週的第一天來與耶穌一起來經驗受苦,再一次來思考有關人生當中受難的意義。

 

皆様に主の平安がありますように。

今年の3月29日は棕櫚(しゅろ)の主日です。主イエスの受難を記念する前に、私たちは聖餐を共に守り、主イエスの救いの恵みを記念しましょう。聖餐は、もともと2000年以上前に起こった出来事です。歴代の信徒は聖餐を守り、主の恵みを慕い求めてきました。この聖餐は、信徒と主との間に結ばれた「新しい契約」を象徴しており、罪が赦され、恵みを受けることを意味しています。 受難週の初日にあたる今日、私たちはイエスと共に苦しみを経験し、改めて人生における「受難(苦難)」の意味について考えてみたいと思います。

 

 

 

一、紀念逾越節

馬太26:26-29

馬太福音在這一段聖經節裡,強調了耶穌和門徒一起一起吃逾越節的宴席。

 

有關「逾越節」,我們也可以參考民數記9:1-14

記載著紀念上帝的拯救的節期。這是以色列人世世代代追思上帝在「出埃及」時所施行的拯救。

 

「出埃及」,這一個古代的記憶,記載著摩西受上帝所揀選來引導以色列百姓脫離埃及法老王統治的故事。

 

 法老王統治著全埃及全地,以色列百姓做苦工,上帝通過了摩西要引領百姓脫離苦難。法老王不肯,雖然經過了九個災害,法老王還是硬著心不要讓以色列百姓離去。

 

 當第十災發生,就是上帝先吩咐百姓們預備羊羔的血塗抹在門上做記號,上帝差遣了使者越過以色列百姓的家,去打擊埃及全境內的長子。那晚,以色列人攜帶著苦菜和無酵絣,在上帝的帶領之下匆忙離開受苦之地埃及。後來,這一個「逾越節」,成為以色列人一種重要的節日。紀念著上帝在以色列百姓苦難中得到拯救的故事。

 

一、過越(すぎこし)の祭を記念する

(マタイによる福音書 26:26-29)この箇所では、イエスが弟子たちと共に「過越の食事」をされたことが強調されています。

「過越」については、民数記 9:1-14 も参照することができます。 そこには、神の救いを記念する祝祭について記されています。イスラエルの人々が代々にわたって、神が「出エジプト」の際になされた救いを追想するためのものです。

「出エジプト」という古代の記憶は、モーセが神に選ばれ、イスラエルの民をエジプトのファラオの統治から連れ出した物語を記しています。 ファラオはエジプト全土を統治し、イスラエルの民に苦役を課していました。神はモーセを通して民を苦難から導き出そうとされましたが、ファラオは拒みました。九つの災いを経てもなお、ファラオの心は頑なで、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。

第十の災いが起こるとき、神はあらかじめ民に対し、子羊の血を門柱に塗って印とするよう命じられました。神は使いを遣わし、イスラエルの民の家を「過ぎ越して」、エジプト全土の長子を打たれました。その夜、イスラエル人は苦菜(にがな)と酵母を入れないパン(無酵母パン)を携え、神の導きのもと、苦難の地エジプトを急いで脱出しました。後に、この「過越」はイスラエルの人々にとって重要な祝祭となり、苦難の中にあるイスラエルの民を救い出した神の物語を記念するものとなりました。

 

 

 

二、聖餐的意義

 今天我們所讀的馬太26章,記著耶穌吩咐學生進耶路撒冷城去到了某人那裏,(這裡所說的「某人」是指馬可,據信馬可福音是四福音書中最早的資料,)

對他說:「我的時候快到了,我與門徒要在你家守逾越節。」

門徒們果然尊著耶穌所吩咐的,就去預備了樂節的筵席。

經文記著:到了晚上,耶穌和十二個門徒坐席。

 

 他們吃的時候,耶穌首先拿起餅來祝福,就剝開遞給門徒。「你們拿著吃,這是我的身體。(馬太26:26)

  「餅」是代表耶穌的身體,為眾人所剝開,代表了耶穌為眾人犧牲,分享給眾人的,耶穌吩咐弟子們應該如此行來紀念祂。

 

   接著,耶穌又拿起杯來,祝謝了,遞給他們,說,「你們都喝這個,因為這是我立約的血,為多人流出來的。使罪得赦。但我告訴你們,從今以後我不再喝這葡萄汁,直到我在復的國度裡童你們喝新的那日子。(馬太26:27-29)

 

  「葡萄汁」是表示耶穌的犧牲所流的寶血,祂的愛讓我們可以嘗到了。這寶血所立的約是新的約,是表示耶穌用寶血來潔淨我們,赦免了我們,讓我們有得救的盼望。

 

    耶穌所說的話句句都深入弟子們的心,他們按著耶穌所說的話來領受了聖餐,這聖餐成為世界上紀念耶穌拯救的記號。我們今日也是按著主耶穌所設立的聖餐來行,目的是來紀念主耶穌他犧牲自己的愛心。

因為這是上帝愛我們的證據,是給我們每一個人都有份的恩典。

 

二、聖餐の意義

今日私たちが読んでいるマタイ26章には、イエスが弟子たちにエルサレムの都へ入り、「ある人」のところへ行くよう命じたことが記されています。イエスはその人にこう言われました。「わたしの時が近づいている。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をすることにしている。」 弟子たちはイエスに命じられた通りにして、過越の食事の準備をしました。 聖書にはこう記されています。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。」

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ 26:26)

「パン」は、人々のために裂かれたイエスの体を表しています。それはイエスが皆のために犠牲となり、分かち合われたことを意味しています。イエスは、このように行ってご自身を記念するようにと弟子たちに命じられました。

また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたたちと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してない。」(マタイ26:27-29)

「ぶどう酒」は、イエスの犠牲によって流された尊い血を表しており、その愛を私たちは味わうことができます。この宝貴な血によって立てられた契約は「新しい契約」であり、イエスが血をもって私たちを清め、赦し、救いの希望を与えてくださることを示しています。

 

イエスの言葉の一つひとつは弟子たちの心に深く刻まれました。イエスの言葉に従って聖餐を受け、この聖餐は世界においてイエスの救いを記念する印となりました。私たちも今日、主イエスが定められた聖餐に従ってこれを行います。その目的は、主イエスがご自身を犠牲にされたその愛を記念することにあります。 なぜなら、これは神が私たちを愛しておられる証拠であり、私たち一人ひとりに与えられた恵みだからです。

 

 

三、再次思考人生的意義

今日,我們一起來恭受聖餐,再一次來思考其中的意義。

我們生活在21世紀的現代,豐衣足食,也體驗到了戰爭帶來的不安與苦楚。

 

我們藉這一個機會來反思生命的意義。

「主耶穌~~上帝的獨生愛子,祂一生傳揚上帝國的福音。

祂不是居住在皇宮,反而是與卑微的人一起生活,在不平安的生活中,我們可以祈求祂的幫助。

祂一生就是「上帝愛世人的代表」。

面對十字架的苦刑,祂的內心也有掙扎,祂順服了上帝,為眾人的罪來犧牲了。」這是關於我們生命的故事,

 

 兄弟姊妹們! 我們謙卑的祈禱來領受,出於內心誠懇的相信,我們將要得救了。領受生命之主耶穌臨在我們的心中的喜悅。誠願上帝的恩惠與我們同在! 從今時直到永遠。

 

三、再び人生の意味を考える

共に聖餐にあずかり、改めてその意義を考えましょう。 私たちは21世紀の現代に生き、衣食住には事欠きませんが、同時に戦争がもたらす不安や苦しみも経験しています。

この機会に、命の意味を振り返ってみましょう。「主イエス、神の独り子。主はその生涯をかけて神の国の福音を宣べ伝えられました。 主は王宮に住むのではなく、むしろ卑しい立場の人々と共に生活されました。平安のない生活の中で、私たちは主の助けを求めることができます。 主の生涯そのものが『神の世への愛の体現』でした。 十字架という苦しい刑罰を前にして、主の心の中にも葛藤がありましたが、主は神に従順であり続け、すべての人々の罪のために犠牲となられました。」これは、私たちの命に関わる物語です。

兄弟姉妹の皆さん! 謙虚に祈りをもってこれを受けましょう。心の底から誠実に信じることで、私たちは救いを得るのです。命の主であるイエスが私たちの心に臨在される喜びを受け取りましょう。 どうか神の恵みが私たちと共にありますように。今も、そしてとこしえまでも。

 

 

祈禱: 感謝主!,通過今日聖餐,我們再一次來明白主愛的救恩。

願主的平安與眾兄弟姊妹同在。 祈禱奉靠主的聖名 阿們

2026年3月22日 星期日

如鹿欣慕溪水

 

宣召:詩篇27:4

題目:如鹿欣慕溪水谷川の水を求め鹿のように

聖經:詩篇42:1-2;哥林多後書4:16-18

聖詩:344,233,387

啟應:45

一.        前言

 小約翰史特勞斯「藍色多瑙河」圓舞曲見證了,河流造就了人類的文明奇蹟。

「溪水」滋潤大地,使得花草樹木成長,是生物的生命當中不可或缺的部份。

 以色列人在曠野因為沒有水喝,而埋怨摩西,甚至於爭吵著要回去埃及地。水源在人的生活中至關緊要,從古到今都是一個不可輕忽的課題。

 我們的身體需要補充足夠的水分來促進血液循環,讓身體健康。我們的靈性上的飢渴更是需要有屬靈上的養分和活水來止渴,讓我們的信仰根基穩固成長。

 耶穌向撒馬利亞的婦女說: 「誰喝我所賜的水,就永遠不渴。我所賜的水要在他裏面成為泉源,直湧到永生。」(約翰4:14)

 願我們以虔誠的心接受主耶穌,找到活水的泉源,讓祂的活水泉滋潤我們的人生。

 

 

1、はじめに

ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「美しく青きドナウ」が象徴するように、河川は人類文明の奇跡を築いてきました。 「谷川の水」は大地を潤し、草木を成長させ、生命にとって欠かすことのできない存在です。 イスラエルの人々は荒野で飲み水がなかったため、モーセに不平を言い、エジプトに帰りたいと争うことさえありました。水源は人間の生活において極めて重要であり、決して軽視できない課題です。 私たちの体は、血行を促進し健康を維持するために、十分な水分補給を必要とします。それ以上に、私たちの霊的な渇きには、信仰の土台を固め成長させるための霊的な養分と「生ける水」が必要です。

イエスはサマリアの女にこう言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:14)私たちが謙虚な心で主イエスを受け入れ、生ける水の源を見出し、その命の泉が私たちの人生を潤してくださるよう願っています。

 

 

 

 

二.        如鹿渴慕溪水

  詩篇42篇是可拉的訓悔詩,我們可以想像當大衛被掃羅王追殺的時候辛苦的情境。這詩篇在耶路撒冷由可拉的後裔持守著,可以做為信徒以信仰教育的目的來吟唱。詩篇42-49篇是可拉的後裔寫的,他們的祖先曾在摩西的時代,因為反叛摩西和亞倫而受到處罰,(民數記16:1-38)但是,後代子孫們堅信上帝,因此被大衛任命為詩班的領班。

 

 我們在閱讀這段經文的時候,可以虔誠的心向上帝祈禱、祈願。

 在詩篇42:5節有寫到「仰望上帝」,這是信仰者最為卑微的姿勢,除了個人使用以外,這一個詩篇也被用於公眾的禮拜,作為參加禮拜者彼此激勵的經文。

 

 421節,如鹿渴慕溪水

 詩篇的作者因為敵人的緣故,沒辦法到上帝的聖殿去禮拜,他心裡渴慕參加公眾的禮拜,卻是沒辦法。他如同是一隻母鹿被勇猛的野獸追趕著,靈性上渴慕上帝的話語卻是不可得的情境。

  例如生病的人,無法參加禮拜,心理面卻是渴望來到施恩的寶座前,懇求主耶穌的憐憫與接納。他們的心境我們可以理解,因此我們同信的兄弟姊妹們要互相代禱,讓上的的聖靈做工,讓生病的人得到安慰與平安。

422 永活的上帝

永活的上帝乃是活水的源頭,信仰者在生活中有憂悶,如同口渴,因著上帝的恩典得到了解渴。

 先知耶利米提醒以色列百姓不要去拜偶像,因為那是錯誤的行為 (耶利米2:13) 因為我的百姓做了兩件惡事:離棄我這活水的泉源;又為自己鑿出水池,卻是破裂不能儲水的池子。」

  上帝是活水的泉源,是我們力量的來源,所以,我們當然要來祂面前來得到幫助。兄弟姊妹們! 我們要常常來作禮拜,渴慕真理的心如同如鹿慕溪水一般。如同希伯來書的作者勉勵眾信徒一樣,「不要像某些人放棄了聚會的習慣,卻要彼此勸勉;既然知道主的日子快到,你們更應該這樣。(希伯來書10:25)

 

2、谷川の水を求めて喘ぐ鹿のように

詩編42編はコラの子の「マスキル(教訓詩)」です。ダビデがサウル王に追われていた時の苦しい状況を想像できます。詩編はエルサレムでコラの子孫によって守り伝えられ、信徒の信仰教育を目的として歌われてきました。詩編42編から49編はコラの子孫によるものですが、彼らの先祖はモーセの時代、モーセとアロンに反逆して罰を受けた者たちでした(民数記 16:1-38)。

しかし、その末裔たちは神を堅く信じたため、ダビデによって聖歌隊のリーダーに任命されたのです。

 

この御言葉を読むとき、私たちは謙虚な心で神に祈り、願いを捧げましょう。 詩編426節には「神を待ち望め」とあります。これは信仰者にとって最も謙虚な姿勢であり、個人的な祈りだけでなく、礼拝において出席者が互いに励まし合うための言葉としても用いられてきました。

 

422節:谷川の水を求めて喘ぐ鹿のように

詩編の作者は敵の妨害により、神の聖所に行って礼拝することができませんでした。心では公の礼拝を渇望していても、それが叶わない状況にありました。彼は、猛獣に追われる雌鹿のように、霊的に神の言葉を慕い求めながらも得られない苦しみの中にいたのです。 例えば、病気のために礼拝に集えない人々も、心の中では恵みの座の前に進み、主イエスの憐れみと受け入れを求めています。人々の心境を私たちは理解すべきであり、信仰の兄弟姉妹として互いに代祷し、聖霊の働きによって病にある方々に慰めと平安が与えられるよう祈りましょう。

 

423節:生ける神

生ける神こそが「生ける水」の源です。信仰者が生活の中で憂いに沈み、喉の渇きを覚えるとき、神の恵みによってその渇きは癒されます。 預言者エレミヤはイスラエルの民に対し、偶像崇拝という過ちを犯さないよう警告しました。 「わたしの民は二つの悪事を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、自分たちのために水溜めを掘った。それは水をためることのできない、壊れた水溜めだ。」(エレミヤ書 2:13) 神こそが生ける水の源であり、私たちの力の源です。ですから、私たちは当然、助けを得るために主の御前に進むべきです。兄弟姉妹の皆さん!常に礼拝に集い、真理を慕い求める心を持ちましょう。それはあたかも「谷川の水を求めて喘ぐ鹿」のようであるべきです。ヘブライ人への手紙の著者が信徒を励ましたように。 「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。あの日が近づいているのが分かっているのですから、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブライ人への手紙 10:25

 

 

三、顧念那看不見的

 保羅在哥林多後書4:16-18 說,「有至暫至輕的患難,但是,將來有極重與永遠的榮光」。 事實上,保羅的患難不輕,(哥林多後書11:23-29)

他說,雖然有患難,但是,比起上帝所賞賜的永遠的榮光,那些患難是微不足道的。

 所以,他向眾信徒說,我們要顧念那看不見的,要注目在那屬靈國度。 而不是注目在這世界上短暫的時刻。

 保羅用對比的方式: 「短暫的患難」與「永遠的榮光」,這是強調上帝那珍貴的祝福。

 哥林多後書第五章更是引用了「地上的幕屋」與「天上永遠的家」這兩種的對比, 勉勵信徒們專注的心向著正確而榮光的目標前進。

  兄弟姊妹! 做為一個基督徒,我們知道人生有困難、麻煩、疾病等等,上帝的愛永遠沒有離開「尋找上帝的人」。尋找上帝的人就是如鹿慕溪水的人。

 

三、見えないものに目を注ぐ

パウロはコリントの信徒への手紙二 417-18節で、「わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と語っています。実際、パウロの苦難は決して軽いものではありませんでした(コリント二 11:23-29参照)。 彼は、苦難はあるけれども、神が与えてくださる永遠の栄光に比べれば、それは取るに足りないものだと言ったのです。 ですから、彼は信徒たちに、見えないものに心を留め、霊的な御国に注目するように説きました。この世の束の間の出来事に目を奪われてはいけません。 パウロは「一時的な苦難」と「永遠の栄光」を対比させることで、神の尊い祝福を強調しました。 コリントの信徒への手紙二 5章ではさらに、「地上の幕屋」と「天にある永遠の住まい」を対比させ、信徒が心を一つにして正しく輝かしい目標へと進むよう励ましています。 兄弟姉妹の皆さん!クリスチャンとして、人生には困難、悩み、病気などがあることを私たちは知っています。しかし、神の愛は「神を探し求める者」から決して離れることはありません。神を探し求める者こそが、谷川の水を求めて喘ぐ鹿のような人なのです。

 

  四、結語

 愛,就像白開水,它在生命中四處可見,很普通,卻是很重要。

我們口渴了,一杯白開水立刻止渴,珍貴就是在這個地方。

我們的心靈有時候會因為家人,朋友的分離而擔心,時間久了變憂傷,如同身心的無力枯竭,需要有旁邊的人給予關心。主耶穌的愛,是活水的泉源,我們當將我們的憂傷來告訴祂,祂愛我們,祂會傾聽我們的聲音,並且幫助我們。

 

耶穌在約翰7:37-38說了:

「節期的最後一天,就是最隆重的一天,耶穌站着,喊着說:「人若渴了,到我這裏來喝!信我的人,就如經上所說:『從他腹中將流出活水的江河來。』」

 

那是住棚節的宣告。

住棚節象徵以色列百姓在曠野時期上帝的供應,表明了「上帝與他們同在」的應許。主耶穌將自己賜給凡是相信祂的人,成為每一個人生命中的活水泉。

 

  兄弟姊妹們!讓我們來尋找溪水,來培養好的習慣,讀聖經,祈禱,參加教會的活動,以這樣子來互相勉勵。

 

四、最後に

愛は、一杯の水のようなものです。それは生命の至るところにあり、一見平凡ですが、極めて重要です。 喉が渇いたとき、一杯の水がすぐに渇きを癒してくれます。その価値はそこにあります。 私たちの心は、家族や友人との別れによって不安になり、時が経つにつれて深い悲しみとなり、身心ともに枯れ果てたようになることがあります。そんな時、傍にいる人の関心を必要とします。主イエスの愛は「生ける水」の源です。私たちの悲しみを主に打ち明けましょう。主は私たちを愛し、私たちの声に耳を傾け、助けてくださいます。

 

イエスはヨハネによる福音書 737-38節でこう言われました。 「祭りの終わりの最も大事な日に、イエスは立ち上がって、大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」

これは仮庵祭(かりいおのまつり)での宣言でした。 仮庵祭は、荒野を彷徨っていた時代に神がイスラエルの民を養われたことを象徴し、「神が共にいてくださる(インマヌエル)」という約束を表しています。主イエスは、ご自分を信じるすべての人に、その人生における「生ける水の泉」としてご自身を捧げてくださいました。

 

兄弟姉妹の皆さん!共に「谷川の水」を探し求めましょう。聖書を読み、祈り、教会の活動に参加するという良い習慣を養い、互いに励まし合っていきましょう。

 

 

新的生命

  題目 : 新的生命   經文 ◎「所以,若有人在基督裏,他就是新造的人,舊事已過,都變成新的了。」 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 」— コリントの信徒への手紙二 5 章 17 節 ...