宣召:詩篇27:4
題目:如鹿欣慕溪水(谷川の水を求める鹿のように)
聖經:詩篇42:1-2;哥林多後書4:16-18
聖詩:344,233,387
啟應:45
一.
前言
小約翰•史特勞斯「藍色多瑙河」圓舞曲見證了,河流造就了人類的文明奇蹟。
「溪水」滋潤大地,使得花草樹木成長,是生物的生命當中不可或缺的部份。
以色列人在曠野因為沒有水喝,而埋怨摩西,甚至於爭吵著要回去埃及地。水源在人的生活中至關緊要,從古到今都是一個不可輕忽的課題。
我們的身體需要補充足夠的水分來促進血液循環,讓身體健康。我們的靈性上的飢渴更是需要有屬靈上的養分和活水來止渴,讓我們的信仰根基穩固成長。
耶穌向撒馬利亞的婦女說: 「誰喝我所賜的水,就永遠不渴。我所賜的水要在他裏面成為泉源,直湧到永生。」(約翰4:14)
願我們以虔誠的心接受主耶穌,找到活水的泉源,讓祂的活水泉滋潤我們的人生。
1、はじめに
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「美しく青きドナウ」が象徴するように、河川は人類文明の奇跡を築いてきました。 「谷川の水」は大地を潤し、草木を成長させ、生命にとって欠かすことのできない存在です。
イスラエルの人々は荒野で飲み水がなかったため、モーセに不平を言い、エジプトに帰りたいと争うことさえありました。水源は人間の生活において極めて重要であり、決して軽視できない課題です。
私たちの体は、血行を促進し健康を維持するために、十分な水分補給を必要とします。それ以上に、私たちの霊的な渇きには、信仰の土台を固め成長させるための霊的な養分と「生ける水」が必要です。
イエスはサマリアの女にこう言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:14)私たちが謙虚な心で主イエスを受け入れ、生ける水の源を見出し、その命の泉が私たちの人生を潤してくださるよう願っています。
二.
如鹿渴慕溪水
詩篇42篇是可拉的訓悔詩,我們可以想像當大衛被掃羅王追殺的時候辛苦的情境。這詩篇在耶路撒冷由可拉的後裔持守著,可以做為信徒以信仰教育的目的來吟唱。詩篇42-49篇是可拉的後裔寫的,他們的祖先曾在摩西的時代,因為反叛摩西和亞倫而受到處罰,(民數記16:1-38)但是,後代子孫們堅信上帝,因此被大衛任命為詩班的領班。
我們在閱讀這段經文的時候,可以虔誠的心向上帝祈禱、祈願。
在詩篇42:5節有寫到「仰望上帝」,這是信仰者最為卑微的姿勢,除了個人使用以外,這一個詩篇也被用於公眾的禮拜,作為參加禮拜者彼此激勵的經文。
42篇1節,如鹿渴慕溪水
詩篇的作者因為敵人的緣故,沒辦法到上帝的聖殿去禮拜,他心裡渴慕參加公眾的禮拜,卻是沒辦法。他如同是一隻母鹿被勇猛的野獸追趕著,靈性上渴慕上帝的話語卻是不可得的情境。
例如生病的人,無法參加禮拜,心理面卻是渴望來到施恩的寶座前,懇求主耶穌的憐憫與接納。他們的心境我們可以理解,因此我們同信的兄弟姊妹們要互相代禱,讓上的的聖靈做工,讓生病的人得到安慰與平安。
42篇2節 永活的上帝
永活的上帝乃是活水的源頭,信仰者在生活中有憂悶,如同口渴,因著上帝的恩典得到了解渴。
先知耶利米提醒以色列百姓不要去拜偶像,因為那是錯誤的行為 (耶利米2:13) 「因為我的百姓做了兩件惡事:離棄我這活水的泉源;又為自己鑿出水池,卻是破裂不能儲水的池子。」
上帝是活水的泉源,是我們力量的來源,所以,我們當然要來祂面前來得到幫助。兄弟姊妹們! 我們要常常來作禮拜,渴慕真理的心如同如鹿欣慕溪水一般。如同希伯來書的作者勉勵眾信徒一樣,「不要像某些人放棄了聚會的習慣,卻要彼此勸勉;既然知道主的日子快到,你們更應該這樣。」(希伯來書10:25)
2、谷川の水を求めて喘ぐ鹿のように
詩編42編はコラの子の「マスキル(教訓詩)」です。ダビデがサウル王に追われていた時の苦しい状況を想像できます。詩編はエルサレムでコラの子孫によって守り伝えられ、信徒の信仰教育を目的として歌われてきました。詩編42編から49編はコラの子孫によるものですが、彼らの先祖はモーセの時代、モーセとアロンに反逆して罰を受けた者たちでした(民数記 16:1-38)。
しかし、その末裔たちは神を堅く信じたため、ダビデによって聖歌隊のリーダーに任命されたのです。
この御言葉を読むとき、私たちは謙虚な心で神に祈り、願いを捧げましょう。
詩編42編6節には「神を待ち望め」とあります。これは信仰者にとって最も謙虚な姿勢であり、個人的な祈りだけでなく、礼拝において出席者が互いに励まし合うための言葉としても用いられてきました。
42編2節:谷川の水を求めて喘ぐ鹿のように
詩編の作者は敵の妨害により、神の聖所に行って礼拝することができませんでした。心では公の礼拝を渇望していても、それが叶わない状況にありました。彼は、猛獣に追われる雌鹿のように、霊的に神の言葉を慕い求めながらも得られない苦しみの中にいたのです。
例えば、病気のために礼拝に集えない人々も、心の中では恵みの座の前に進み、主イエスの憐れみと受け入れを求めています。人々の心境を私たちは理解すべきであり、信仰の兄弟姉妹として互いに代祷し、聖霊の働きによって病にある方々に慰めと平安が与えられるよう祈りましょう。
42編3節:生ける神
生ける神こそが「生ける水」の源です。信仰者が生活の中で憂いに沈み、喉の渇きを覚えるとき、神の恵みによってその渇きは癒されます。
預言者エレミヤはイスラエルの民に対し、偶像崇拝という過ちを犯さないよう警告しました。 「わたしの民は二つの悪事を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、自分たちのために水溜めを掘った。それは水をためることのできない、壊れた水溜めだ。」(エレミヤ書 2:13) 神こそが生ける水の源であり、私たちの力の源です。ですから、私たちは当然、助けを得るために主の御前に進むべきです。兄弟姉妹の皆さん!常に礼拝に集い、真理を慕い求める心を持ちましょう。それはあたかも「谷川の水を求めて喘ぐ鹿」のようであるべきです。ヘブライ人への手紙の著者が信徒を励ましたように。
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。あの日が近づいているのが分かっているのですから、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブライ人への手紙 10:25)
三、顧念那看不見的
保羅在哥林多後書4:16-18 說,「有至暫至輕的患難,但是,將來有極重與永遠的榮光」。
事實上,保羅的患難不輕,(哥林多後書11:23-29)
他說,雖然有患難,但是,比起上帝所賞賜的永遠的榮光,那些患難是微不足道的。
所以,他向眾信徒說,我們要顧念那看不見的,要注目在那屬靈國度。
而不是注目在這世界上短暫的時刻。
保羅用對比的方式: 「短暫的患難」與「永遠的榮光」,這是強調上帝那珍貴的祝福。
哥林多後書第五章更是引用了「地上的幕屋」與「天上永遠的家」這兩種的對比, 勉勵信徒們專注的心向著正確而榮光的目標前進。
兄弟姊妹! 做為一個基督徒,我們知道人生有困難、麻煩、疾病…等等,上帝的愛永遠沒有離開「尋找上帝的人」。尋找上帝的人就是如鹿欣慕溪水的人。
三、見えないものに目を注ぐ
パウロはコリントの信徒への手紙二 4章17-18節で、「わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と語っています。実際、パウロの苦難は決して軽いものではありませんでした(コリント二 11:23-29参照)。 彼は、苦難はあるけれども、神が与えてくださる永遠の栄光に比べれば、それは取るに足りないものだと言ったのです。
ですから、彼は信徒たちに、見えないものに心を留め、霊的な御国に注目するように説きました。この世の束の間の出来事に目を奪われてはいけません。 パウロは「一時的な苦難」と「永遠の栄光」を対比させることで、神の尊い祝福を強調しました。
コリントの信徒への手紙二 5章ではさらに、「地上の幕屋」と「天にある永遠の住まい」を対比させ、信徒が心を一つにして正しく輝かしい目標へと進むよう励ましています。
兄弟姉妹の皆さん!クリスチャンとして、人生には困難、悩み、病気などがあることを私たちは知っています。しかし、神の愛は「神を探し求める者」から決して離れることはありません。神を探し求める者こそが、谷川の水を求めて喘ぐ鹿のような人なのです。
四、結語
愛,就像白開水,它在生命中四處可見,很普通,卻是很重要。
我們口渴了,一杯白開水立刻止渴,珍貴就是在這個地方。
我們的心靈有時候會因為家人,朋友的分離而擔心,時間久了變憂傷,如同身心的無力枯竭,需要有旁邊的人給予關心。主耶穌的愛,是活水的泉源,我們當將我們的憂傷來告訴祂,祂愛我們,祂會傾聽我們的聲音,並且幫助我們。
耶穌在約翰7:37-38說了:
「節期的最後一天,就是最隆重的一天,耶穌站着,喊着說:「人若渴了,到我這裏來喝!信我的人,就如經上所說:『從他腹中將流出活水的江河來。』」
那是住棚節的宣告。
住棚節象徵以色列百姓在曠野時期上帝的供應,表明了「上帝與他們同在」的應許。主耶穌將自己賜給凡是相信祂的人,成為每一個人生命中的活水泉。
兄弟姊妹們!讓我們來尋找溪水,來培養好的習慣,讀聖經,祈禱,參加教會的活動,以這樣子來互相勉勵。
四、最後に
愛は、一杯の水のようなものです。それは生命の至るところにあり、一見平凡ですが、極めて重要です。
喉が渇いたとき、一杯の水がすぐに渇きを癒してくれます。その価値はそこにあります。 私たちの心は、家族や友人との別れによって不安になり、時が経つにつれて深い悲しみとなり、身心ともに枯れ果てたようになることがあります。そんな時、傍にいる人の関心を必要とします。主イエスの愛は「生ける水」の源です。私たちの悲しみを主に打ち明けましょう。主は私たちを愛し、私たちの声に耳を傾け、助けてくださいます。
イエスはヨハネによる福音書 7章37-38節でこう言われました。 「祭りの終わりの最も大事な日に、イエスは立ち上がって、大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」
これは仮庵祭(かりいおのまつり)での宣言でした。
仮庵祭は、荒野を彷徨っていた時代に神がイスラエルの民を養われたことを象徴し、「神が共にいてくださる(インマヌエル)」という約束を表しています。主イエスは、ご自分を信じるすべての人に、その人生における「生ける水の泉」としてご自身を捧げてくださいました。
兄弟姉妹の皆さん!共に「谷川の水」を探し求めましょう。聖書を読み、祈り、教会の活動に参加するという良い習慣を養い、互いに励まし合っていきましょう。