2026年9月23日 星期三

認識真理

 


認識真理

詩篇105:1-2

約翰8:31-36 約書亞24:14-15

聖詩:186,468,387

起應文8

 

今天我們通過上帝所啟示的經文裡面,讓我們來學習「認識真理」的重要。

一、約書亞的決斷

約書亞書記載,以色列百姓進入到迦南地,他們與其他的民族住一起,在那裏沒有專心事奉上帝,因此受到了苦難。上帝過去忍耐和用慈愛來包容他們,但是,他也不要給他們犯罪的機會。

 

約書亞在這個時候向他們說,以色列民阿!你們當今是站在選擇的機會,是要順服耶和華上帝,或者是要敬拜大河的那邊的神和埃及的神明呢? 迦南當地的神明是巴力和在埃及地的太陽神。約書亞說,「至於,我和我家,我們必定事奉耶和華上帝」。

 

這是何等重大的決定,約書亞對以色列百姓的信仰上的抉擇,「上帝給予我們有自由的選擇,是要將生命交由上帝掌權,或者是用自己有限的心智來面對事情呢?」

只要我們由上帝的來掌握,我們就有機會,這機會是經歷真理在我們的心中,並且我們就會得到自由了。

 

二、真理會使我們自由

約翰福音八章31到36節耶穌說,「犯罪的就是罪的奴隸。」

有時候人們做錯的事情,他會說:「只要我高興我就有權利做這個事情。」或是推託說,「那不是我的錯」等等,在罪中的人,他已經無法來辨別是非對錯的事情了。

 

犯罪的人受到罪的捆綁,受到罪的左右,他們會被罪來引誘,然後走到歪路去了。他們就不是一個自由的人。這正是耶穌所要強調的重點。

 

兄弟姐妹們我們要警醒,避免我們受到了迷惑,而進入到罪惡之中了。

 

聖經有說:你們若繼續遵守我的道,就真是我的門徒了。你們將認識真理,真理會使你們自由。」真理讓我們得到自有自由。參考約翰8:31-32)

 

猶太人以為他們是亞伯拉罕的後裔,就當然不會成為誰的奴隸,但是,耶穌對他們說,犯罪的就是罪的奴隸。所以鼓勵他們唯有父家裡面,行真理的才是得到真正的自。(參考約翰8:34-36)

 

三、真理就在耶穌裏

以弗所4章21節提到「如果你們聽過他的道,領了他的教,因為真理就在耶穌裏」,這裡有說真理在耶穌裡面,這一個真理引導我們來認識上帝。

 

當耶穌離開世間之前,祂差遣了真理的靈,也就是聖靈降臨到人間,幫助我們來認識真理

「就是真理的聖靈,乃世人不能接受的;因為不見他,也不認識他。你們卻認識他,因他常與你們同在,也要在你們裏面。」(約翰福音14章17節)

 

耶穌他所設立的教會扮演了很要緊的角色,就是成為真理的一個土台。 就是學習真理的基礎真理。保羅如此說了「如果我晚一點去,這封信能讓你明白,我們在神的家中應該怎麼生活。這個家就是永生上帝的教會,是支撐和守護真理的柱子與根基。」(提摩太前書三章15節)。

 

這是主耶穌託付給教會一個神聖的是使命,教會就是宣揚主耶穌拯救的重要的真理的地方。

因此教會的教導兄弟姊妹們要在真道上,「隨時要警醒,若是故意犯罪,贖罪的祭就沒有了。」(希伯來書10章26~27節)

 

彼得也勉勵初代的教會兄弟姊妹們,「要在真道上堅固。」「你們雖然曉得這些事,並且在你們已有的真道上堅固,我卻要將這些事常常提醒你們。」 (彼得後書一章12節)

 

 

上帝的真理通過耶穌基督來到我們當中。所以,我們要積極的來學習,在教會裡面我們彼此來扶持,也就是用耶穌基督祂的話來彼此扶持。

 

耶穌的話是真理,祂有告訴我們要彼此相愛,「我賜給你們一條新命令,乃是叫你們彼此相愛;我怎樣愛你們,你們也要怎樣相愛。你們若有彼此相愛的心,眾人因此就認出你們是我的門徒了。」

 

這一個愛,是耶穌給予世間重要的真理。而且,祂用祂的生命來證明了上帝對世人的愛,對罪人的拯救。讓我們有罪的身體而得到自由了,我們感謝上帝的恩典,願一切榮耀歸與祂。

 

四、鞋匠的故事

如同托爾斯泰的一個小說鞋匠的故事,有一個鞋匠在一個寒冷的冬天,因為沒有生意,他就到外面去走。結果看到一個即將要垂死的青年,他把青年帶到家裡面,原本家裡已經很貧窮,但是,因為他的愛心讓這個青年給了他一個麵包這個青年就微笑。

 

這一個青年想說如何來幫助這一個鞋匠,他學習如何來做鞋子,結果第二天有一個人來預定要做一個整年都穿起來都不會壞掉的鞋子,結果,這一個青年只做一雙拖鞋,這一個吩咐的人他很生氣的就離開了,結果不久他的僕人跑過來說,他的主人已經離開了。這事件讓青年第二次露出來微笑。

 

後來有一天,有一個姑娘帶了兩個小女孩進來,說要給這兩個小女孩新的鞋子穿,因為他們是孤兒,做好了鞋子之後,這個青年做出了第三次的微笑。然後就消失了。

 

原來他就是上帝所派遣來的世界上的。原來是跟他說你要在世界上有找到可以讓人家覺得是天堂的一個事情,他找不出來,結果被到人間裡面。遇到了這些事情,然後,他就很高興的因為遇到了有愛心的事情。

 

五、結語

在舊約聖經何西亞書6: 3有寫到

「我們務要認識耶和華,竭力追求認識他。他出現確如晨(光);他必臨到我們像甘雨,

像滋潤田地的春雨。」

 

先知的話如同在曠野之聲,雖然是空曠寂寞的聲音卻是對以色列百姓的呼喊。約書亞作為一個領導者,他明白百姓們的需要,就是要回到上帝的面前。所以,他以身作則來做這一個重要的決定。生活在迦南地的以色列百姓,讓他們可以存活的就是上帝。

 

主耶穌也不止一次呼籲學生們要離開罪惡來親近真理。

多馬是一個多疑的學生,祂問耶穌何處去尋朝找那一條路?

耶穌說:「我就是道路、真理、生命。若不藉著我,沒有人能到父那裡去。你們若認識我,也就認識我的父。從今以後,你們認識他,並且已經看見他。」(約翰14:6-7)

 

願我們彼此共勉。在人生當中學習主耶穌給予我們的真理,通過認識真理,讓我們得到了自由。

2026年9月15日 星期二

萬事有定期

 




題目:萬事有定期

經文:傳道書3:1-8

新聖詩:2,613,386

起應文:33

一、前言。

  人生在世間上生活著,有什麼事是重要的呢?

從出生,經過一生,最後走到生命的終點。怎麼樣子的終點才是值得我們追求的呢?時間到底是什麼?

 

  有人說,時間如同流水一般流過過去了。未來不是現在,現在的瞬間又成為了過去,人不知道時間從何而來,又要往什麼地方去? 但是,可以知道的,人和時間一起生活著。

 

二、人生的無常

  聖經傳道書中寫到,「時間」對人來說是很重要的事情。作者常說到「時間」,在這整段書中總共出現了29回,可見時間站人生中重要的份量。

 

  人在不同的時間出生,也在不同的時間結束生命,人好像是一直被時間支配著,在變化無常之中來生活著。「人不知道自己的定期。魚被險惡的網圈住,鳥被羅網捉住,禍患的時刻忽然臨到,世人陷在其中也是如此。」(傳道書9:12)

 

  傳道書作者講,「天下萬事有他的期」,(傳道書3:1)

有人談到人生的現象,生來死去,時間就如同流水一般的過去了。又有人比喻人生如同一個旅程,一個人的出生如同火車的起點,一個人的生命結束也如同火車到達的終點站。

 

 我們如同坐在一個固定好的軌道上默默行走的夜景汽車上,從出生一直到生命的結束。人的時間流著,人在無法完全掌握的當中行走著,人的生到死,我們不能完全自由的選擇,說要向什麼地方去。有定時,也有不定時的時候,這就是人生。

 

三、萬物有定期

  2節到8節學到人生的無常。

人間的生活在各方面都有它的定時。

「生有時,死有時。」(2節) 種植有時,而收成也有時。

「殺戮有時,治療也有時。毁滅有時,但是建造也有時。」(傳道書3:3)

「哭有時笑有時。嘆氣有時,而跳舞歡也有他的時候。」(傳道書3:4)

 

 「丟石頭的時候有時,堆聚石頭有時。懷抱的時候也有時,不懷抱的時候也有時。」(傳道書3:5)

「尋找有時,失落也有時。保守有時,捨棄有時。」(傳道書3:6)

「撕裂有時,而縫補也有時。」(傳道書3:7)

「愛有時,僧恨有時。戰爭有時。和平有時。」(傳道書3:8)

 

 中國的老子曾說:「知時心自靜」 。這個意義白話來理解,人的本性本來是清淨平和的,卻常常被繁雜的心思所擾亂;人心本來是安定寧靜的,卻被各種貪欲所牽引。

 

 日本話有一句,「見定めることは至難」,指出,「人對事物做出明確的判斷、辨別真偽或看清局勢」這不是簡單的事。這是在形容一個人在現實的生活中,對於隱藏的事情,要找出它的意義是很困難的。

 

感謝上帝!祂給我們一生的時間,讓我們把握現在,想一想,要如何來使用,積極地來追求真理,明白人生的意義,這是非常重要的事情。

 

三、上帝的預備

 「萬物有其定期」,人要如何面對?

在虛無多變化的環境中,感謝上帝有祂的旨意運行在這當中,

 

 三章11節記載著,「上帝造萬物,各按其時成為美好,又將永恆安放在世人心裏;然而上帝從始至終的作為,人不能測透。」上帝在人的心中放下了「永恆的思想,」,這一句話是比較困難了解, 「永遠への思い」,這是指世界,無知,暗闇、謎等等的事。

 

 「永恆」或說「永遠」。這個意思的來源有「秘密,隱秘」的意思。

它指著「在遙遠的過去的時間」、3章14節記載著,上帝把「永遠的思想」放在人的心中,給人去思考,人可以透過回想過去,思考現在和未來,思考有關這「時間」對我們的意義。

 

 上帝的恩典之下,祂把這種不可思議的思考能力給人,並且用一生的時間讓我們去尋求。就是從人生的開始到終點這一段時間,把這珍貴的和探尋的能力給人了,但是,人還是沒用辦法参透上帝的計劃。

 

 兄弟姊妹們! 聖經的寶貴在於上帝的啟示之下,信仰的前輩們把這些智慧記錄下來了。讓我們學習,我們本著謙卑的心來學習上帝對我們的計劃吧。

 

 學習的4個階段和效果,循序漸進,我們嘗試著努力看看。

1聽先生教的2自己把所學的寫下來。3 與同學或是兄弟姊妹互相尋問來學習。4教學相長。自己嘗試著向其他的人來教導,如此,別人可以得到,自己也在教導的過程當中也獲得了許多。讓我們持續的學習,尋求上主的旨意,如此不妄此生。

 

四、結語,趁著白晝多做主工

 台灣的諺語「八仙過海,隨人變通。」這是指一個人面對問題的時候,都用自己不同的能力和方式來應付。 今天我們也學習到了「時間」的重要,加上這一個力道來幫助人,看清時勢的變化,來做適當的應對。

這一種重要的能力,更能夠幫助我們在生活當中應用,來面對人生中的挑戰。

 

 兄弟姊妹們!讓我們把握時間,當趁著白晝多做主工。聖經的約翰福音 9章4節:「趁著白日,我們必須做那差我來者的工;黑夜將到,就沒有人能做工了。」這是主耶穌對學生的吩咐,我們要保握時間,多做主工。來榮耀上帝的聖名。

 

祈禱: 主的聖名是值得我們稱讚的。感謝主的恩典讓我們分享以色列人的人生智慧。今日我們再體會,明白「時間」的要緊,求主幫助我們,願我們所行的都是能夠榮耀上帝。 感謝祈求鳳靠主耶穌的聖名。阿們

 

完全無欠の人の癒しーナアマン

 



序

おはようございます。先週は各地で大雨の影響が続きましたが、皆様とご家族の生活は守られているでしょうか。今月もご一緒に主を礼拝できる特権を感謝します。

今日読んでいただいたのは、イスラエルにとっては敵国の軍隊の長のストーリーです。このころ、北イスラエルは北東部に位置するアラムとの間で、度々戦争がありました。ここに出て来たのはそのアラムの国の将軍、ナアマンという人です。

本

1.誰もが羨むものを持っている人、ナアマン

ナアマンは、アラムの王様に重んじられ、尊敬されている人でした。理由は、彼はが敢で、戦いでは常に勝利の先頭に立っているような人だったからです。(v.1)に「主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたから」とあります。


 アラムという国は、かつてイスラエルに偶像を持ち込み、唯一の神様を礼拝することを軽んじたアハブ王を打ち取ってイスラエルを霊的に最悪な状況から救い出したことがありました。

ナアマンがその戦いの将軍だったかどうかを聖書は記していませんが、彼が軍隊を勝利に導いたのは1度や2度ではなかったでしょう。


ですから、王様には重宝されますし、それだけでなく、自分の家族やしもべたちからも愛され、敬われていたと思うのです。たとえば、3節に出てきた、イスラエルから捕虜として連れてこられた娘のことばや、13節のしもべたちのことばを読むと分かります。

仕える者たちからも、ナアマンのことを想う、愛にあふれたことばを引き出したのは、慕われていた証拠だと思います。地位のある立場にありながら、人々に愛され敬われる人格者だったのでしょう。


また、5節を見ると、彼が持っていた財産は莫大だったと想像できます。新改訳聖書の脚注を見て計算すると、彼が持って行った贈り物は、銀340キロ、金68キロ!?驚くような分量です。王様が持たせてくれたものもあったでしょうが、もしこれが純金だったら、今の価値で言えば約16億円!これが純金でなかったとしても、びっくりするほどのものを彼は持っていました。まさに人生の成功者と言えるような人です。

2.が、実は

ところが、この人はツァラアトという皮膚の病気を患っていました・・・。
ツァラアト:「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」を描写しています。(第3版「あとがき」より)ですから、特定のひとつの病気を指すものではありません。様々皮膚の異常状態をまとめて現わしていました。「物の表面」とあるように、布や皮のカビや、家の壁に出てくる変色やカビのような現象もツァラアトと呼ばれていました。聖書の律法では、ツァラアトと判断されると、コミュニティーの外に住み、人々から離れて暮らすことが求められました。


能力も、立場もあり、経済的にも豊かで、人間的にも立派で、さぞかし素晴らしい人生を送っている人と思いきや・・・人知れず、悩んでいることがありました。いや近くの人たちはきっと気づいていたでしょう。ナアマン将軍は重い皮膚病に苦しめられていたのです。彼の輝かしい人生に暗い影を落としていたのがツァラアトだったのです。

この世界にも暗い影が広がっています。今の時代は、とても豊かで便利になったと言われるけれど、どれほど便利になっても、戦争や飢餓や貧困がなくなりません。ここまで医学が発達しているのに、コロナのように、世界中が一気に不安や恐れに支配されることも起こります。研究が進み、様々な技術が発展しているのに、自然の力の前では人は無力であることを痛感させられます。


100%完全な世界なんてないのです。罪がこの世界に入ったからです。

ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り・・・」

罪があらゆる人々を傷つけ、苦しめ、絶望させています。


人間もそうです。完全無欠の人なんていません。その人自身でなくても、家族や、その人をとりまく環境に問題があったりします。誰もが様々な痛みや悲しみを経験します。何か欠けている、傷んでいる状態です。


そして、その解決方法を知らないというのが多くの人たちの現状だと思います。ローマ3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」

とあるように、私たち自身が一人残らず罪人だからです。


ナアマンは、国中の腕の良い多くの医者に診てもらったでしょう。けれども良くなりません。どうしようもなかった。人間のあらゆる試みも、彼に癒しや解決を与えませんでした。

3.救い、癒しを得る—―意外なやり方で

そんなナアマンですが、妻に仕えていた若い娘の奴隷のことばをきっかけに、新しい道に踏み出すことになりました。

「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その肩がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

一人の奴隷の、主人を想う言葉を受け取ったナアマンは、アラムの王様に言って紹介状を書いてもらい、たいそう立派な贈り物を携えて、馬と戦車で仰々しく、敵国イスラエルの王のところに向かったのです。


これはアラムと北イスラエルという二つの国をまたがった動きであり、本人だけでなく、王様たちにとっても大きな注目と期待が寄せられていたと想像します。


 ところがイスラエルの王様は、アラムの王様からの手紙を読み、激しく怒ります。自分がツァラアトを治せと言われていると受け取ったからです。実際、奴隷の娘は「預言者のところ」に行くように勧めたのですが、そうは書いていなかったようですね。私たちにとってもこのようなミスコミュニケーションはありがちだと思います。それによって不必要な衝突を生んでしまう事は多々あります。


 でも神様はそこにも介入してくださいます。「神の人エリシャ」が助け舟を出し、元々ナアマンが行くべきところに導かれていくのです。


 そもそも、神の人、預言者エリシャはどんな人かというと・・・BC850年ごろから、預言者としての活動を始めました。先輩エリヤに替わって北王国イスラエルで仕えた偉大な預言者の一人であり、偶像バアルを拝む人々との戦いを展開しました。彼は約50年間、4代の北イスラエルの王様たちに仕え、その生涯の最期(Ⅱ列王記13:14~)には王様が見舞いに来て泣き伏したなどと記されていることから、国だけでなく、王にとっても大きな影響力を持つ存在だったことが伺えます。


そんな預言者エリシャなのですが、敵国の将軍ナアマンが威儀を正して、馬と戦車でやってきた時の様子が驚きです。

10節「エリシャは、彼に使者を遣わして言った。」

なんと彼は、客人が入口まで来ているのに、玄関から出てきて歓迎することもなく、人を介した「伝言」で、「ヨルダン川に行って七回身体を洗いなさい」と指示をしました。


皆さんがナアマンだったらどう思うでしょうか。どう反応しますか。仮にもアラムの国では王様に重んじられている将軍です。この場にも大勢のしもべを引き連れてやってきたのです。


11節を見てください。彼は激怒しました。遠いところから王様の紹介状と相当な贈り物を携えてやってきたのに、自分が予想していた対応はなく、おまけに提示されたのが想像していた治療方法ではなかったからです。このことは彼のプライドを大きく傷つけたことでしょう。川に行って身体を洗う?!そんなの治療になるのか!?


12節の彼のことばから察するに、彼の国の川の方がイスラエルの川よりもずっときれいなのか、立派なのか・・・ともかく、指示された方法はあまりにもばかげている、簡単すぎる!と思いました。


神様が私たちに与えてくださる癒し、救いも同じようにとられます。救われるためには、善い行いを積み重ねていくこと、大きな犠牲を払うこと、と思いきや、「信じなさい。そうすれば救われる。」と言われる。そんな簡単なことでいいのか。それは安っぽくないか。

みことばは言います。

1コリント1:23-24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」


使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」


聖書ははっきりと、十字架にかけられたイエス様を信じることで私たちは救いを受けると言います!確かに、救い主が十字架にかかって死ぬという神様の救いの計画は人間の目で見れば、おかしい、納得がいかないと言うかもしれません。でも神様が私たちのために用意してくださった救いは、そのようなものです。お金を払って得るものでも、善い行いの結果与えられるものでもありません。


 ナアマンの方に話を戻しましょう。絶望的な苦しみの中にいたナアマンは、一度はその場を去りました。納得がいかなくて、憤って帰途についたのです。


 でもそんな時、彼を敬愛するしもべたちが言葉を発しました。

13節「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 確かに!と思います。救われるためには、癒されるためには、ハードルが高いことをする必要があると言われた方が納得しやすいのかもしれません。この言葉を聞いたナアマンは、癒しを受けとるために、しもべたちの勧めを聞いて受け入れ、神のみことば(預言者の言葉)に従いました。


 みことばはあっさりとナアマンがその言葉に従った様子を書き記します。しかしながら、これはなかなか難しいことだと思いませんか。権威ある立場の人が、しもべのアドバイスを聞いて川に一人下りて行き、身体を洗うという行動に出るのは、勇気が要ったでしょう。多くの贈り物を運ぶ家来たちが同行していたわけですから、彼らが注目する中、水辺に行き、病に侵された肌を晒し、預言者の言葉通りに7回洗ったということです。その時のナアマンの心中は、どんなだったでしょう…。


 しかしその行動のゆえに、彼のからだは「元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです!自分の想像とは違っても、ただ神さまの言葉を受け入れて従うことが、救いを受ける道なのです。


 こう考えると、すべてが神さまの計画の内にあったことを思います。彼がイスラエルの敵であるのに数々の戦いで勝利していたこと、でもツァラアトを患っていたこと、イスラエルの捕虜の娘が彼の妻に仕えていたこと、その娘が預言者を紹介したこと、などなど、彼自身は自覚していなかったでしょうが、すべて主なる神さまが導いておられた事で、ナアマンに本当の救いをもたらす手段だったと言えます。

4.あなたの務め

今日、最後に注目していただきたいのは、ナアマンの妻の元で働いていた若い娘です。彼女は、名前すら出てきません。捕虜として異国の地にいたことくらいしか知られていない、ひとりの女の子が、ナアマン将軍の癒しのために大きな役割を果たしました。もちろん、彼女が癒したのではなく、彼女は、神さまの力だけがナアマン将軍の重い病気を癒せると知っていて、それを伝えただけです。


そんな風に、救いのカギになるものは、小さく、目立たないものかもしれません。

私たちもある意味、この娘のように、小さく、目立たない存在と言えます。社会で大きな影響力を持つようなものではありません。けれども、この世のどんなものももたらすことのできない、本当の癒しや救いがここにあるということを指し示すことはできます。


 あなたに与えられた務めは、十字架にかけられたイエス様こそ、本当の救いであり、あなたの罪を赦すことのできる唯一の方であり、悪に打ち勝つ力を与えてくださる方だと紹介することです。

祈り:

主よ。みことばを感謝します。私たちは見ている分には分からないけれど、

あらゆる人が人生で様々な問題や悩み、苦しみを抱えています。

その原因が「罪」であることを教えてくださり感謝します。

そして解決方法も教えてくださり感謝します。

神さまのみことばに従って、イエス様のところにそれを持ってくるならきよめていただけると知りました。主よ、まだそのきよめを、癒しを、救いを受け取っていない人がいるならば、与えてください。

また、すでに受け取っている私たちは、名もなきひとりの娘のように、「ここに救いがある」と人々に紹介する勇気を与えてください。

認識真理

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