2025年5月23日 星期五

主賜一條新誡命

 

宣召:詩篇96:7-9

題目:「主賜一條新誡命

聖經:約翰13:31-35

聖詩:522,140,392

啟應:37

一、大家平安!

  我們很高興一起來敬拜上帝,以聖經的話語來彼此學習心靈上的功課。

  耶穌是優秀的老師,他說:「我心裏柔和謙卑,你們當負我的軛,向我學習;這樣,你們的心靈就必得安息。」(馬太11:29)

  我們跟隨主耶穌的腳蹤來行。他給門徒們一條新的命命 就是彼此相愛。

在摩西的五經其中一卷利未記19:18「不可報仇;也不可埋怨本國的同胞。要愛自己的鄰人,像愛自己一樣。我是上主。」

這是古希伯來人的誡命之一。

今天我們唸一段耶穌對門徒的話說:

「我賜給你們一條新誡命,乃是叫你們彼此相愛;我怎樣愛你們,你們也要怎樣彼此相愛。」(約翰13:34)

但是,要以基督的愛去愛人,這對於當代猶太人的社會來說是一個創新的觀念。

 這是主耶穌對門徒們提到要面對十字架之苦的預告,耶穌知道祂的時刻即將來臨。這榮耀的時刻是即將要完成上帝所託付的使命。

今天讓我們再一次傾聽,主耶穌祂隊世人所吩咐的話。

                                                 

二、彼此相愛

  上帝的愛乃是通過主耶穌來完成,耶穌向門徒們預告這面對十字架的艱難時刻將到,也是耶穌要離開門徒們的時候。約翰13章如此記著:

「我賜給你們一條新誡命,乃是叫你們彼此相愛;我怎樣愛你們,你們也要怎樣彼此相愛。」(約翰13:34)

 

  這是主耶穌對門徒們愛心的表示。耶穌知道人的有限,很難做到彼此相愛,所以祂說,「我怎樣愛你們,你們也要彼此相愛。」不僅如此,耶穌也是要門徒們愛自己。學習接納自己,接納自己的軟弱,失敗,以及所受的苦楚。接納自己的不完美,這樣子幫助他們能夠來面對種種的挑戰。兄弟姊妹們!這也是主耶穌對於普世的宣告,祂向世人宣告,祂是如何地愛世人,所以世人也要學習必此相愛。

保羅也是如此見證了。

聖經以弗所書4:32「要仁慈相待,存憐憫的心,彼此饒恕,正如上帝在基督裏饒恕了你們一樣。」

 

  教會是主耶穌的身體,是愛的共同體,各個肢體的調和,連結,使基督的身體成長了。彼此來學習,是奉靠主耶穌基督的名祈禱,向上帝來陳明內心一切的感受,想法,困境,祈求上帝的憐憫、饒恕之恩,在上帝的慈愛中來得到能力。

 

  實踐主耶穌所賜新的一條誡命 「彼此相愛」,這是普世的價值。學習耶穌給世人的愛來做為我們重新出發的起點,打開矛盾、困難的地方尋找一個解決的出口點。我們居住的生活當中,接觸許多的的人事物,懇求主幫助我們回到初心。以主耶穌的話來更新我們的生活。

 

三、 在心靈上得著平安

  主賜一條新的誡命 就是彼此相愛。那是主耶穌與門徒們即將臨別內心迫切的吩咐。耶穌要門徒們照著行,祂也是吩咐我們。每當我們過教會的節期,彷彿主耶穌的話再一次會對我們叮嚀著。

  在四月20日我們慶祝復活節,在復活的節期,是慶祝主耶穌的節日,他是鼓勵我們,從我們恐懼與失望的墳墓中復活,重新來面對生命。 他也是一種的應許,是應許捆綁我們的鎖鏈就要脫落。

 

 六月8日是聖靈降臨節,在聖靈降臨的節期,我們要慶祝那醫治我們,用心生命充滿我們的聖靈,上帝用他醫治和釋放的聖靈來幫助我們, 在這不同的教會的節期當中,我們用謙卑的心來祈求聖靈給予我們心靈上的支持。

 我們確信,通過心靈的禮拜,祈禱,靜思,讓我們體會在心靈上得著平安,並且重新得力。

 德雷莎修女曾說: 「人們請我再給正在婚姻中掙扎的夫妻壹些宗告,我總是如此回答說,『祈禱和饒恕』。我想,若是沒有上帝的愛在我們生命之中,誰也無法做到饒恕。」

四、結語

  約翰是一位漁夫,他被主耶穌所揀選,他不僅將所聽到的寫出來,他也是用他的生命來見證了。他的事蹟在福音書,在使徒行傳以及在啟示錄中。

他自己也如此寫道:

「親愛的,我寫給你們的不是一條新誡命,而是你們從起初所受的舊命令;這舊命令就是你們所聽過的道。

然而,我寫給你們的是一條新命令,在基督裏是真實的,在你們也是真實的,因為黑暗漸漸消逝,真光已經在照耀。」(約翰壹書2:7-8)

 倚靠主耶穌,原來我們的生命在黑暗處的將要在光明之中了。

    回到340年前的母校我們的內心很是激動的,那起初的心再重新出發。兄弟姊妹! 對於信徒的我們來說,「原來的地方開始」,就是主耶穌他先愛我們的地方。學習主耶穌,再體會那耶穌的愛~~原點的意義,那將給予我們找到一些啟示。

 祈禱

感謝主的恩典。在此生中給予我們有機會來體會主的愛。

讓我們開啟心門,學習主耶穌,跟著主的腳蹤行,~~

彼此相愛。 祈求 是奉靠主耶穌基督的聖名求 阿們。

2025年5月16日 星期五

敬虔的學習

 

宣召:詩篇27:4

題目:「敬虔的學習」

聖經:提摩太前書4:6-10

聖詩:161,477,395

啟應:33

一、大家平安!

  最近歐洲吸引人的消息,一是新的教皇就任,另一件事是烏克蘭和露西亞間的戰爭似乎有可以停戰的契機。基督教會在歐洲的歷史中佔有很要緊的地位,其中重要的因素那就是「敬虔」 ,也就是「學習敬畏上帝」的態度。

  「敬虔」是一個重要的宗教心,我們在混亂的世界中居住著,藉著在不斷的反省當中,來尋求一個更符合人類文明的生活方式。讓我們衷心祈禱,期待在這歷史的轉換期,可以有令人鼓舞的消息出現。

 「敬虔」是信仰堅定相信上帝的態度,信賴上帝來生活。日本人有一句話說: 「敬天愛人」。對天要存著敬畏的心,而且對人要有愛心。

這不是與生俱來,是需要訓練的。保羅在提摩太前書提到,人的身體需要鍛鍊,幫助身體和心靈的健康。

  信仰上的鍛鍊也是如此,有敬畏上帝的態度,鍛鍊個人讓靈性成長,對人是有益處的,「因為有今生和來生的應許」(提摩太前書4:8)

  保羅也勉勵教會的信徒們不要陷入空想的話。(提摩太前書1:4)

乃是要努力在靈性上的鍛鍊,雖然這種鍛鍊是勞力又是勞心的事,但是,教會的兄弟姊妹是要互相鼓勵來學習,希望上帝賜予我們得到那永遠的生命。(提摩太前書4:10)

二、學習敬虔

  讓我們看年輕的提摩太,聖經記載有關他與保羅一起傳福音的故事。

年輕的提摩太面對偉大的使命,心中想必是相當地懼怕。

因此保羅提醒他,不要害怕。當時候保羅遇到船難,眾人在危機當中,保羅見證到,「有上帝的使者對保羅說,不要害怕,你必要站在凱撒面前,並且與你同船的人,上帝都賜給你了。」(使徒行傳27:24)

  保羅在羅馬被關的時候,提摩太曾去看他,保羅殉教之後提摩太負責以弗所教會。後來在羅馬皇帝逼迫教會時,提摩太殉教了。保羅給年輕的提摩太的教導~~「敬虔」,這一個教導是重要的。我們在這裡可以學到一些道理。

1.敬畏上帝的態度,就是以真誠而慎重的態度面對上帝,來參與教會的服事。 就是常常回到原點,引導我們來服事上帝。

2.上帝是信實的,祂不會看輕我們的心。「神所要的祭就是憂傷的靈,神啊,憂傷痛悔的心,你必不輕看。」(詩篇51:17)

所以,我們坦然地來到上帝的面前。 如同保羅勉勵提摩太一樣的。

3.保持倚靠上帝的信心來面對許多世俗的挑戰。初代教會許多的異端干擾信徒們在靈性上的成長。比如假教師們否定耶穌是上帝的兒子。保羅提醒信徒要堅定的倚靠上帝,長存這一個敬虔的心,可以坦然面對困難。

  讓我們藉著聖經再一次來明白敬虔的重要。回到敬虔、單純面對上帝的初衷;謙虛有禮貌,常常存著這態度來判斷事物,這樣子的信仰態度是得蒙上帝喜悅的。                                                                                                                                                        

三、敬虔落實在生活中

  「敬虔地敬拜上帝」,就是「服事」的原義。

這也是教會的重要傳統,讓我們看在新約聖經裡提到耶穌的教導:

「因為人子來,並不是要受人的服事,乃是要服事人,並且要捨命作多人的贖價。」(馬可10:45)

 保羅在腓立比書2:6-8 也提到了主耶穌本是尊貴的,但是,為了世人的緣故,祂來世間,為的就是替我們找到一條路。是在主耶穌裡面互相理解,互相包容的一條路。耶穌看到受傷的人就憐憫了他們,醫治了他們。

  初代教會使徒們按著主耶穌的教訓,一方面擘餅來紀念主的救恩,一方面也採取行動,呼籲兄弟姊妹一起來關心鰥寡孤獨者,這是教會的生命的表現。在人類歷史當中,或因飢荒,戰亂,天災,造成許多人間的窮乏,基於主耶穌愛的教訓,教會有責任來教導,讓我們再回復到原先上帝對世人的愛。

  用這一個態度來服事,這是保羅對提摩太的勉勵,同時也是對於我們的教導。

四、結語

  感謝上帝的恩典,讓我們分享到聖經的道理。

我們的希望是在於永活的上帝, 祂給我們生活上的一切所需要的,我們確信上帝保守我們的心懷意念。

祂也是給予我們有一個很重要的祝福,那就是「與復活的主耶穌一同生活」。在主裡分享耶穌的愛,而且願意去幫助其他的人。

 

  讓我們看在教堂前方的「十字架」 ,有垂直的和水平的兩種關係,它有特殊的意義。這一個垂直的,是我們人與上帝的關係,上帝的話,以及上帝的恩典通過了耶穌基督給人們。我們歡喜領受,這由上而下的力量幫助我們來面對世界。

不只如此,十字架也有橫的水平關係 那是我們與他人,以及和社會、世界的關係。

   我們思考著十字架,提醒我們,不斷地去學習敬虔的功課,將上帝給我們的愛心實踐出來。

願主耶穌的愛和祝福與我們同在!

 祈禱

感謝主的恩典。

讓我們學習敬虔的重要,在繁忙的人生當中有一個目標來學習。

就是專注於主耶穌,跟著主的腳蹤行,我們生活上不足的求主來教導我們。

祈求 是奉靠主耶穌基督的聖名求 阿們。

 

2025年5月14日 星期三

「ハガルという女性」

 

「ハガルという女性」    スズキ知恵子 先生

 2025/05/11

創世記16:1

 

アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

 

 今日も「母の日」がやってきました。皆さんそれぞれにご自分の「母」がいらっしゃいます。血のつながった母、義理の母、また大変お世話になった「母」のような存在…と、顔を思い浮かべると、いろいろな思い出がよみがえってくるでしょう。ひと時、私たちのここまでの歩みに深く愛情を注いでくれた母を覚えて感謝して祈りましょう。

 

ーーー祈りーーー

 

 今日は旧約聖書のハガルという女性に注目します。実は、聖書はこの女性について多くを述べていません。先ほど読んでいただいたようにアブラハムの妻、サライという人の女奴隷でした。

 

 覚えていらっしゃるでしょうか、1年前の今日取り上げてお話ししたサラです。ハガルは国籍がエジプトで、サライに仕える者だということしか紹介されていないのです。

 

 創世記12章で約束の地に向けて旅だったアブラハム夫妻は、一度カナンの地に入りましたが、その後飢饉が起こったのでエジプトに向かってしばらく滞在したと書いてありますので、その時に少女を雇ったのでしょう。

 

1.ハガルの立場ーサラの女奴隷

 つまり、ハガルは、女主人であるサラに従うべき立場にあります。逆を返せば、サラはハガルを自分の好きなようにすることができました。ですから、子どもを産めなかった自分の代わりに夫の子どもを産ませるために、自分のしもべハガルを夫に差し出したのです。

 

創世記16:2-3

サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

 

アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

 

 今の時代なら、人権無視、性的虐待として大きな問題になるでしょう。ところが、当時の道徳基準によればごく普通のことでした。

 

 でも、それは神様の基準には、かなっていなかったのです。また、アブラハムとサラ夫婦について神様が教えてくださったご計画とも違っていました。

 

16:4- 彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。

 

ハガルは妊娠しました。子どもは神様の祝福のしるしでしたし、そもそもそれは、アブラハムとサラ夫婦にとっては願った結果のはずですが、実際はそううまくはいきません。ハガルの気持ちに大きな変化が起きて、自分の主人に対する態度が変わったのです。そこで、

 

16:5 サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかれば良いのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

 

 サラの嫉妬の嵐が始まりました。容易に想像できます。愛する人との間の子どもを願っているのに、なかなか妊娠できない。それを、若い女性がいとも簡単に(?)乗り越えてきたのです。それだけならまだしも、主人である自分をさげすみ、軽んじ、横柄な態度を取るようになった・・・・だとしたら、サラとしては、きっと悔しくて、悲しくて、感情のコントロールができなくなったのでしょう。夫を責めてしまいます。ハガルが妊娠して赤ちゃんが生まれるまで10か月。その間、何度も何度も苛立ち、夫に八つ当たりし、夫婦関係も泥沼化していったのでしょう。とうとう、アブラハムはこう言います。

 

16:6 アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

 

2.逃げ出したハガル

 アブラハムの許可を得て、サラは堂々とハガルを苦しめました。あまりに酷い仕打ちだったのでしょう。ハガルは妊婦にも関わらず、逃げ出してしまいました。「女の闘い」で負けたのはハガルのようでした。

 

 この状況を皆さんはどう思いますか。ハガルはなんてかわいそうなんだろう!と思いますか。それとも、態度が悪かったのだから仕方ないと思うでしょうか。

 

 この場合、サラもハガルも二人とも、神様の目には許されないことをしていたことが分かります。

 

16:79 主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女の下で身を低くしなさい。」 

 

 神様は使いをハガルのもとに送り、サライのところに帰ってまたしもべとして歩むよう命じられたのです。でも、この命令は、ハガルにとってどれほど辛いものだったでしょう!彼女は荒野の中の泉を見つけて、そこで一息つきながら、これからどうしたらいいのかと途方に暮れていたに違いないのです。自分の態度が悪かったとは言え、自分だって好きで女主人の旦那と関係を持ったわけではなく、奴隷として自分の主人に従うしかなかった。悲しく弱い立場にあったのです。また元いた場所に戻って、女主人との気まずい関係を続けなければならないのは、かなり気が重いことです。

 

 ところが彼女はそのことばに従いました。

 

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。

 

 ハガルは自分に語られたのが「私を見てくださる神」だと告白し、勇気を出して、女主人のところに戻り、男の子を産みました。

 

16:15 ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名付けた。

 

 私たちも神様の御声に従って行かなければなりません。たとえ状況が厳しくても、自分の感情がついていかなかったとしても、神様が私たちを見ていてくださり、みこころを示して導いてくださることを信じていきましょう。 どんな荒野の中にいても、神様が私たちをご覧になっていて、私たちの必要を満たしてくださると信じて踏み出す時、私たちもハガルのように、慰めと励ましをいただいて、希望を持って力強く歩むことができるのです!

 

3.出産したハガル

 この後の16節にあるように、ハガルが男の子イシュマエルを産んだ時、アブラハムは86歳でした。時を経て21章で、サラも身ごもって男の子を産んだとあります。その時、アブラハムはなんと100歳(21:5)!

 

 つまり、神様がアブラハム夫妻との約束を果たされるまで、イシュマエル誕生後14年の歳月がかかったということになります!14年は長いです。過去のことだったら、「あっという間」だと振り返るでしょう。

 

 今から14年前といえば、2011年。東日本大震災の年。大きな出来事で、今でも鮮明に記憶している部分もありますが、過去の記憶はやがて薄れていきます。それだけいろいろなことが14年間に詰まっているからです。同様に今から14年後、2040年の未来への約束は、ものすごい先のことのようでぼんやりしてしまいます。

 

 神様がアブラハム夫妻と結んだ約束は、何年後というはっきりした数字がありませんでした。いつ果たされるか分からない。その上、子どもを産む年齢はとうに過ぎていてまさに不可能の域に入っていたわけです。神様の約束は本当に果たされるのか??

 

 ということで、アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエルの4人の関係はなかなか難しいものだったんじゃないでしょうか。腹違いの弟、イサクが生まれるころは14歳だったイシュマエル。ティーンエージャーで、まさに多感でセンシティブな年ごろです。

 

4.サラの出産後の事件 

 サラが息子イサクを産んでしばらくすると、事件が起きました。

 

2189 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。

 

 よりによってイシュマエルが、イサクの乳離れの時期、つまり13歳くらいのかわいい盛りにある時にイサクをからかっているのを目撃してしまったのです!ブチっとサラの堪忍袋の緒が切れました。14年間、アブラハムの子として、我慢しながら面倒を見てきたイシュマエルが、自分が産んだ愛おしい小さなイサクをからかっている!彼女はハガルとイシュマエルを追い出すようにとアブラハムに言いました。

 

 アブラハムは非常に苦しんだようですが(v.11)、神様の許しをいただいてハガル母子を追い出すことにしました。

 

2114- 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、べエル・シェバの荒野をさまよった。

 

 今度の荒野は、ハガルが選んだ道ではありません。追い出されてしまったのでした。

 

15- 皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、

 

自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。

 

神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。…」

 

 人間は、水を飲まないと45日で死んでしまうと言われます。アブラハムがどれくらいのサイズの皮袋を持たせてくれたのか分かりませんが、そんなに多い量ではなかったでしょう。ですから、このかわいそうな母と子は、死を目前にしていました。けれどもこの状態も神様はご覧になり、少年の声を聞いてくださっていたのです。

 

 そしてハガルの名前を呼んで、聞いてくださいました。「ハガルよ、どうしたのか」と。そういえば、前回の荒野に逃げ出したときも「サライの女奴隷ハガル、あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」(16:8)と呼び掛けてくださっていました。

 

 神様は憐れみ深いお方です。どんなに小さな者をも見捨てることなく、心配し、救ってくださるお方です。ですから、弱い立場で、時代と状況の犠牲者とも言えるハガルを覚えておられ、名前を呼び、約束を下さいました。

 

2118b わたしは、あの子を大いなる国民とする。」

 

 事実、この時死にかかっていたイシュマエルには子孫が与えられ、アラブ諸国の祖となりました。ご存じのように、アブラハムの子孫は、イサクからの流れであるユダヤ人と、イシュマエルからの流れであるアラブ人、パレスチナ人がいます。ということで、私たちは、今日も続いている中東の争いに、2人の誕生の時に現れた嫉妬と不和が続いていることを見るのです。

 

 私たちも同じように嫉妬や不和の間を行ったり来たりする小さく愚かな存在です。嫌なことは避けて逃げようとします。しかしながら、神様のまなざしは私たちにも注がれていて、神様は私たちの名前も呼んで「〇〇、どうしたのか。あなたはどこから来てどこへ行くのか」と尋ねておられるのです。

 

5.私たちが学ぶこと

 ハガルの姿から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

 

① 誘惑から身を守ること

 

 私たちは周りに流されることなく、誘惑から身を守るべきです。

 

 当時の文化や習慣によれば、奴隷の身分である者が、主人の子を産むのは名誉なことと考えられていたかもしれません。でも、神様の目に、そのことは不道徳な罪でした。

 

 ハガルが自分の主人であるアブラハムとサラの信じるまことの神様を信じていたかは定かではありません。ですから、主人サラの命令が正しいか正しくないかを理解していたかは分からないですし、その命令を拒否したかどうかも分かりません。でも、神様はそのことを良しとはされなかったのです。

 

② 感情的に行動することの戒め

 

 彼女はサラから苦しい仕打ちを受けて逃げ出しました。どんないじめで、その仕打ちをどれくらい我慢したかは書いてないので分からないのですが、彼女は神様に頼るのでなく、自分で何とかしようとして先走り、逃げ出してしまいました。

 

 確かに、私たちも苦しい目に遭うと、目の前の問題に心捕らわれます。そしてまずは自分の力で何とかしようとします。つまり、神様に頼るよりも前に、感情に流されて動いてしまいやすい者です。けれど、神様は引き戻してくださいました。

 

③ 神の守りと導きは決して離れない

 

 そんな反面教師のハガルをも、神様は守り、導いてくださいました。どんなに弱い立場で、身分の低い者であっても、神様は守り、教え、導き、祝福してくださるのです!

 

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 私たちもハガルのように、自分の手に負えないような状況の中で神を信頼することの難しさを覚えます。たとえ何が起こっても神に信頼できる秘訣は、なんでしょう?それは、神の支配を信じ、悟り受け入れることです。神は私たちの人生に何が起こっているかをご存じです。神があなたの人生に介入することを受け入れていきましょう。

 

ローマ8:28 神を愛する人たち。すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 

等待救主降生

  宣召 : 詩篇 5:3 題目 : 等待救主降生 聖經:詩篇 130:1-8 彌迦書 5:2 聖詩 :41(1,2,3,7),75, 386 啟應文 :22   一、   請安與祝福   兄弟姊妹平安 ! 今天是待降節的第一個主日,讓我們一起在思考待...