「主を知ることを切に追い求めよう」
ホセア4章1節〜6章3節
聖書朗読▼ホセア4:1,6:1-3
「イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。」
“以色列人哪,當聽耶和華的話:耶和華必控告這地的居民,因為這地上沒有誠實,沒有正直,也沒有人認識神。”
「さぁ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
來吧,讓我們歸向耶和華!祂撕裂我們,也必醫治我們;祂擊打我們,也必包紮我們。兩天後祂必使我們復活,第三天祂必使我們復活。我們必在他面前存活。讓我們認識耶和華,切切尋求認識祂。他必如晨光顯現,他的恩典必如甘霖臨到我們,如滋潤大地的春雨。
おはようございます。先月に引き続き、今日も旧約聖書のホセア書から神様のみこころを聞きたいと思います。
早安.上個月的內容繼續,今天我想從舊約聖經何西阿書中聆聽上帝的旨意。
序
日本の宗教では多くの場合、私たちを救う方がどのような方であるかというより、人の心に芽生えた信心の方に焦点が置かれます。
日本宗教往往更注重人們心中信仰的成長,而不是拯救我們的那位神明的身份。
「いわしの頭も信心から」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。この2月の「節分」にちなんだ言葉です。江戸時代、家族の健康と幸せを願う節分の夜に鬼を追い払うため、ヒイラギの枝に焼いたイワシの頭を刺して門口に飾る風習があったのでこんな言葉が生まれました。
你聽過「連沙丁魚頭都是信仰的象徵」這句諺語嗎?這句話與節分節有關,節分節是每年二月舉行的節慶。江戶時代,人們會在節分之夜將烤沙丁魚頭掛在家門口的冬青枝上,祈求家人健康幸福,並驅趕妖魔鬼怪,這句諺語便由此而來。
意味は、どんなに愚かなことや価値のないもの(鰯の頭)でも、それを信じる人(信心)にとっては霊験あらたかで、ありがたいものになるということです。そうやって、何を、また誰を信じるかの大切さが脇に追いやられ、信じる人の心が大切とされることから、主観的な考えをもとにいろいろと混ざりあった宗教が生まれます。
其意義是,無論某物(例如沙丁魚頭)多麼愚蠢或毫無價值,它都能奇蹟般地發揮作用,並為相信它的人(信仰者)帶來祝福。如此一來,信仰的對像或內容的重要性便被弱化,而信徒的內心則變得更加重要,最終導致基於主觀思維的各種混合宗教的出現。
かつて同じように混ざった宗教を作った国が北王国イスラエルです。その民に対して神は「主を知ること」こそが、何よりも大切なのだと強調します。神は、ときに圧倒的な喜びが伴う恵みによって、あるいは反対に、圧倒的な苦しみを通して、ご自身がどのようなお方であるか私たちに示してくださいます。
北國以色列曾是宗教多元融合的國家。上帝向祂的子民強調,「認識耶和華」是最重要的事。上帝藉著祂的恩典向我們顯明祂的屬性,有時伴隨著無比的喜樂,有時則伴隨著難以承受的苦難。
1.「祭司たちの罪」
4章は「イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。」と始まります。訴えられているイスラエルの問題は「この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。」ということでした。
第四章開頭寫道:「以色列人哪,要聽耶和華的話,因為耶和華要控告這地的居民。」以色列被控告的問題是「這地沒有真理,沒有正直,也沒有人認識神」。
「真実」「誠実」「神を知ること」は、神のかたちに創造された者に何よりも求められている生き方です。
「真理」、「真誠」和「認識神」是所有按神形象所造之人最迫切需要的生活方式。
当時の北王国イスラエルの問題は、ヤロブアム一世がソロモンの息子レハブアムからこの国を独立させたとき、人々が南王国ユダの首都エルサレムの神殿に礼拝に行かなくて良いように、金の子牛を二つ作り、勝手に北のダンと南のベテルに礼拝の場を作ったことに始まります。
當時北以色列王國的問題始於耶羅波安一世將國家從所羅門的兒子羅波安手中分離出來。為了阻止百姓前往南猶大王國首都耶路撒冷的聖殿,他建造了兩尊金牛犢,並在北方的但和南方的伯特利隨意設立了敬拜場所。
しかもベテルでは、レビの子孫ではない者を祭司に任命し、祭壇でいけにえをささげさせるという人間都合の礼拝を行いました。そのため北王国イスラエルでは神のみこころに反する地元の宗教と混ざったような礼拝が行われて行きました。
此外,在伯特利,他們任命非利未後裔的人為祭司,讓他們在祭壇上獻祭,這是一種為了方便人而採取的敬拜方式。結果,以色列北國的敬拜變成了各種地方宗教的混合體,違背了上帝的旨意。
彼らは神の望む礼拝ではなく、自分たちの都合に合わせた礼拝をささげたのです。
他們按照自己的方便敬拜,而不是按照上帝的旨意敬拜。
そうしてイスラエルの民は、神のみこころをますます見失って行きました。それが(4:2、3)「呪いと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに衰え果て、海の魚さえも一掃される。」と描かれ、「真実」「誠実」「神を知ること」とは反対の現実がこの地に広がったのです。
於是,以色列人越來越偏離神的旨意。這在創世記4:2-3中被描述為:「咒詛、欺騙、兇殺、偷盜、姦淫甚多,流血不止。因此,這地悲哀,所有居住在那裡的人都衰弱,田野的走獸、空中的飛鳥也都如此。海裡的魚也滅絕了。」 與「真理」、「真誠」和「認識」神的現實。
そして神は、5節以降でその根本的原因が祭司にあるということを指摘します。祭司の堕落によって、イスラエルの人々は神を知ることができなくなり、「知識がない」ために、神の怒りを買うようなことを平気で行いました。
從第5節開始,上帝指出,這一切的根源在於祭司。由於祭司的腐敗,以色列人無法認識上帝;又因為他們“缺乏知識”,所以他們做任何招致上帝憤怒的事情都毫無愧疚。
神は祭司たちに向かって(v.6)「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」と言われました。
上帝對祭司們說(第6節):“我的子民因無知而滅亡。因為你們棄絕知識,我也棄絕你們;你們不再作我的祭司。因為你們忘記了你們上帝的律法,我也必忘記你們的兒女。”
そして7節「彼らは増えるにしたがって、ますますわたしに罪を犯した。」と記されますが、これは北王国イスラエルがヤロブアム二世のもとで全盛期を迎え、宗教活動が盛んになり、祭司の数もどんどん増えて行って、神の怒りを買うような礼拝の形を発展させていったということです。
第7節接著說:「他們越發增多,就越發得罪我。」這意味著以色列北國在耶羅波安二世統治時期達到鼎盛,宗教活動更加活躍,祭司人數迅速增長,他們發展出一種觸怒上帝的敬拜方式。
それに対し神は「わたしは彼らの栄光を恥に変える。」とおっしゃって彼らの繁栄を滅ぼすことを警告されました。
對此,上帝警告他們,他必將摧毀他們的繁榮,說:“我必使他們的榮耀變為羞恥。”
(v.8)祭司たちが「わたしの民の罪のきよめのささげ物を貪り食い、民の咎に望みをかけている」という表現は、当時の祭司たちの問題を赤裸々に表しています。というのも、人々は罪を犯したときに、償うためのいけにえをささげます。祭司たちは人々がより大きな罪を犯して、より大きないけにえをささげてくれることを密かに望んでいたというのです。「罪過のためのいけにえ」の肉は祭司のものとなるからです。
(第8節)「祭司吞吃我百姓的贖罪祭,盼望他們犯罪」這句話清楚地揭示了當時祭司面臨的問題。百姓犯罪後,會獻祭贖罪。祭司暗中盼望百姓犯下更大的罪,獻上更大的祭物,因為贖罪祭的肉是屬於祭司的。
つまり、祭司たちは人々の罪によってより裕福になることができました。「民も祭司も同じようになる」(4:9)とは、民の堕落から利益を得る祭司たちが民と一緒に堕落することを指します。そこで主は、「わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。」とさばきを宣告されたのです。
換句話說,祭司們靠著百姓的罪惡而變得更富有。 「百姓和祭司必變得一樣」(4:9)意味著,那些從百姓的腐敗中獲利的祭司,也會和百姓一樣腐敗。因此,耶和華宣告審判,說:“我必按他們的生活方式懲罰他們,按他們的行為報應他們。”
4:10を見ると彼らは「食べても満たされず」「もっと、もっと!」という貪欲で依存状態にあることが語られます。ところが「主を捨てて、姦淫を続け」ても誰も満足を得られません。当時の依存症の典型がアルコール依存症だったのもあり、「ぶどう酒、新しいぶどう酒は良識を失わせる」(4:11)と記されます。
在4:10中,我們看到他們“吃喝卻不滿足”,處於貪婪和沈迷的狀態,想要更多。然而,如果他們“離棄耶和華,繼續行淫”,沒有人會感到滿足。酗酒在當時是典型的成癮行為,經上寫道:「酒,就是新酒,也能敗壞人的心」(4:11)。
そして12節~、混乱した礼拝の様子が描かれます。「わたしの民は木に伺いを立て、棒が彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分の神のもとを離れて、姦淫したからだ。彼らは山々の頂でいけにえを献げ、丘の上で犠牲を備える。樫の木、ポプラ、テレビンの木の下で。その木陰が心地よいからだ。」
然後,從第12節開始,描述了混亂的敬拜狀態:「我的百姓仰望樹木,樹木也告訴他們。因為淫亂的靈引誘他們走入歧途,他們離棄了他們的神,行了邪淫。他們要在山頂上獻祭,在山岡上,在橡樹、楊樹和橡樹下預備祭物,因為這些樹蔭令人愉悅。」
聖書の教えとカナンの礼拝形式が混ざり合った結果、創造主との交わりから生まれるいのちの喜びが失われ、人間の堕落をますます助長するような宗教が生まれました。
聖經教義與迦南崇拜形式的混合,導致宗教失去了與造物主交流所帶來的生活樂趣,並進一步加劇了人類的墮落。
2.「主を知らない民」 不認識主的人民
ところが神は4:14「わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても、あなたがたの嫁が姦通をしても、罰しない」と仰います。皮肉に満ちた表現です。親が子どもに罰を与えるのは、普通、子どもがより大きな苦しみを味わうことがないように矯正するためです。
然而,上帝在創世記4章14節中說:「我必不因你們的女兒犯姦淫而懲罰她們,也不因你們的妻子犯姦淫而懲罰她們。」 這是一句反諷的話。父母懲罰孩子通常是為了糾正他們的錯誤,防止他們遭受更多痛苦。
皆さんは「叱られなくなったら、終わりだよ」などと言われたことがありませんか。叱る、罰するのは、相手の成長や幸せを望んでのこと。それと同じことが神と人との関係にも言えるでしょう。神はこのときイスラエルを見放すことに決めたというのです。そしてその結果が「悟ることのない民は滅びに落ちる」です。
你是否聽過有人說:「當不再被責罵時,一切就結束了?」我們責罵和懲罰他人,是因為我們希望他們成長並快樂。這同樣適用於神與人之間的關係。據說,神在那時決定拋棄以色列。結果就是「不明白的民必滅亡」。
4:15「ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない」とありますが、そこにはバアル礼拝の神殿がありました。そこで「『主は生きておられる』と言って誓ってはならない」とは、偶像バアルの礼拝とまことの神の礼拝を混ぜてはいけないと言うことです。
4:15 經上說:“你們不可往吉甲去,也不可上伯亞文去”,那裡曾是巴力神廟的所在地。因此,“你們不可起誓說:‘指著永生的耶和華起誓’”,意思是說,你們不可將對偶像巴力的敬拜與對真神的敬拜混為一談。
17節「エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。」神はイスラエルを堕落するままに放置されました。エフライムとはヨセフの長子、北王国イスラエルの中心部族でしたが「彼らは酒を飲んでは、淫行にふけり、淫らなふるまいで恥を愛してやまない」(4:18) 状態だったのです。
第17節:「以法蓮與偶像聯合,就隨他去。」上帝任由以色列墮落。以法蓮是約瑟的長子,也是以色列北部王國的中心支派,但他們「飲酒,行淫,喜愛羞恥,行邪蕩的事」(4:18)。
5章の初めでは「祭司たち」「イスラエルの家」「王の家」とそれぞれに呼びかけ、神のさばきの警告に耳を傾けるように言われています。「あなたがたはミツパで罠となり、タボルの上に張られた網となったからだ。」と、かつてイスラエルが勝利を収めた記念の町で彼らが敗北と苦しみを味わうことが告げられます。
在第 5 章開頭,上帝對“祭司”、“以色列家”和“王家”講話,告訴他們要聽從上帝關於審判的警告:“因為你們在米斯巴成了網羅,在塔博爾山成了撒網”,宣告他們將在曾經是以色列勝利紀念地的這座城市遭受失敗和苦難。
そして主は(3,4節)「わたしはエフライムをよく知っている。イスラエルはわたしに隠されていない。今や、エフライムよ、あなたは姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった。彼らは自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ。」と嘆かれるのです。
耶和華哀嘆(第3-4節):「我深知以法蓮,以色列也無法瞞過我。但以法蓮啊,現在你行了淫亂的事,以色列也因此被玷污了。他們不肯離棄惡道,歸向他們的神,因為他們裡面有淫亂的靈,他們還不認識耶和華。」
ここの「知る」ということばは、単なる情報的な知識や認識ではなく、主体的にその対象を深く愛することを意味します。神はエフライムを選び、彼に期待し、彼を通してご自身の栄光を周辺の国々に知らせようとしておられました。ところが、エフライムの側では、主なる神を知ろうともしないというのです。彼らは偶像礼拝におぼれ、まことの「神に帰ろうとしない」状態だったのです。
這裡所說的「認識」並非指單純的訊息或認知,而是指對對象深切的、主觀的愛。上帝揀選了以法蓮,對祂寄予厚望,並希望透過祂向周圍的列國彰顯自己的榮耀。然而,以法蓮卻從未嘗試去認識他們的上帝耶和華。他們沉溺於偶像崇拜,絲毫沒有「歸向上帝」的意願。
新約聖書の「放蕩息子」のたとえを思い出させます。息子は父の愛を知ろうとせず、自由を求めて遠い国に行き、生活が行き詰まってから初めて父の愛に気づきました。
這讓我想起了新約聖經中浪子的寓言,兒子拒絕接受父親的愛,遠走他鄉尋求自由,直到人生充滿未解之謎後才意識到父親的愛。
神のもとに帰ろうとしない民の姿を5節では「イスラエルの高慢はその顔に表れている」と記します。彼らは自分たちに注がれてきた神の愛を忘れ、自分の力で豊かになったかのように、高慢になっているのです。
第5節將那些拒絕歸向神的人描述為「以色列人的驕傲顯在他們臉上」。他們忘記了神傾注在他們身上的愛,變得驕傲自大,彷彿他們靠自己的力量變得富有。
そしてその結果は「イスラエルとエフライムは、自分の不義につまずき、ユダも彼らとともにつまずく」です。自分の知恵や力に頼る者は、どこかで大きくつまずきます。
結果將是:「以色列和以法蓮必因自己的罪孽跌倒,猶大也與他們一同跌倒。」那些倚靠自己智慧或力量的人,必在某處遭遇嚴重的挫折。
さらに悲しいことに「彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主が彼らから離れ去ったのだ」(5:6)と記されます。つまずいたイスラエルの民が羊や牛のいけにえを携え、主を尋ね求めても、見つけられません。
更令人悲哀的是,經上說:「他們必帶著羊群牛群尋求耶和華,卻尋不見他,因為他已經離棄他們了。」(5:6)跌倒的以色列人帶著牛羊祭物去尋找耶和華,卻尋不見他。
ヘブル3:15「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように。」福音が心に響く時、私たちはそれを感謝して受け止めるものでありましょう。
希伯來書3:15:「你們今日若聽祂的話,就不可硬著心,像從前抗拒神一樣。」當福音觸動我們的心時,我們應當心存感恩地接受。
イスラエルの民は偶像礼拝の子孫を増やしていきます。彼らは豊かな実りをかなえてくれるはずのバアル神を礼拝することで、皮肉にもますます困窮して行くのです。
以色列人繁衍出許多崇拜偶像的後代,諷刺的是,他們崇拜巴力神——本應賜予他們豐收的神——結果卻變得越來越貧窮。
3.「さあ、主に立ち返ろう」 讓我們回歸主的懷抱
5:8~、北王国イスラエルが、アッシリア帝国によって滅ぼされてゆく様子が描かれます。11、12節では「エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ。わたしはエフライムにはシミのようになり、ユダの家には腐れのようになる」と記されますが、
從5:8開始,以色列北國被描述為被亞述帝國摧毀。第11節和12節寫道:“以法蓮必受欺壓、受審判、被折斷,因為他甘願遵行人的規條。我必像蛀蟲一樣侵蝕以法蓮,像腐爛一樣侵蝕猶大家。”
これは、神の定められた礼拝ではなく、人間が造り出した偶像礼拝に心奪われていた民にとって、神はしみや腐れのように内側から彼らを滅ぼす敵となるという皮肉です。
諷刺的是,對於一群沉迷於人造偶像崇拜而不是敬拜上帝的人民來說,上帝反而成了他們的敵人,像蛀蟲或腐爛一樣從內部摧毀了他們。
そしてその上で「エフライムは自分の病を見た。ユダは自分の腫れものを。エフライムはアッシリアに行き、大王に人を遣わした。」と言われています。ユダの王アハズがアッシリアの大王との同盟を画策したことを言っているのでしょう。しかしその結果は「しかし、彼はあなたがたを癒すことができず、あなたがたの腫れものも治せない。」でした。人間的な画策は結局うまくいきません。
經文接著說:「以法蓮看見自己的病,猶大看見自己的瘡。以法蓮就往亞述去,差人去見那大王。」這很可能是指猶大王亞哈斯試圖與亞述大王結盟。然而,結果是:「他不能醫治你,也不能醫治你的瘡。」人的計謀最終都會失敗。
すると主は「わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。」(5:14)と言われ、エフライムやユダが本当に恐れるべきは大国アッシリアでなく、神ご自身であると教えられました。
耶和華說:「我向以法蓮必像獅子,向猶大家必像少壯獅子;我必親自撕裂擄掠,沒有人能救我。」(5:14)這教導以法蓮和猶大,他們真正應該懼怕的不是亞述的大能,而是上帝自己。
続く15節では「わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」と記されます。なんと、神はしばらくの間、民の真ん中に住むことを止め、彼らから離れるというのです。
下一節,也就是第15節說:「我要回到我的地方,直到他們受刑罰,尋求我的面;他們在困苦中必尋求我。」多麼令人驚訝!上帝將不再與祂的子民同住,暫時離開他們。
神が近くにおられないということはどれほど恐ろしいことかと思います。でもイスラエルの民は苦しんで初めて、偶像の神々が頼るに値しないということに気づき、神を捜し求めるようになるのです。
知道上帝不在身邊肯定很可怕,但只有當以色列人遭受苦難時,他們才意識到他們的偶像神不值得信賴,並開始尋求上帝。
この恐ろしい状況の中でも希望があります。イスラエルの民が主を慕い求めるまでという期限付きの苦しみであるということです。
在這種可怕的境況中仍有希望:這只是暫時的苦難,直到以色列人歸向耶和華為止。
そして6章。ホセアはイスラエルの民に呼びかけます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒し、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」直前の5章で語られたさばきとは真逆、方向転換を迫る呼びかけです。
在第六章中,何西阿呼喚以色列百姓:「來吧,我們歸向耶和華!他撕裂我們,也必醫治我們;他擊打我們,也必包紮我們。」這與前一章(第五章)所說的審判截然相反,它呼喚著以色列人改變方向。
v.2-3「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」ホセアはイスラエルの民が主を知ることを熱心に求めるように促します。
第2-3節:「過兩天,耶和華必使我們興起;第三天,他必使我們興起。我們必在他面前活著,我們必認識他;我們當切切地尋求認識耶和華。他必如晨光顯現,他的恩典必如甘霖臨到我們,如滋潤大地的耶和華。
たとえ罰を受け、苦しんだとしても、主は私たちを生き返らせ、立ち上がらせ、生きるようにしてくださる。これは一方的、圧倒的な神の恵みです。
即使我們遭受懲罰和苦難,主也會使我們復甦,使我們振作,使我們能夠活下去。這就是神那單方面、浩瀚無邊的恩典。
ここで主の現れが「雨」として描かれるのは、それこそ彼らが嵐と豊穣の神バアルに求めていたことだからでしょう。この冬は大雪で困っている地方がある一方で雨が降らなくてここ東京などはカラっからですが、蛇口をひねれば豊かな水が流れる日本と、乾燥地帯イスラエルでは、水への意識がだいぶ違うと思います。
之所以這裡將主的顯現描繪成“雨”,可能是因為他們向巴力——風暴與豐饒之神——祈求降雨。雖然今年冬天一些地區遭受了暴雪侵襲,但東京卻滴雨未下,一片乾旱。然而,我認為日本和以色列乾旱地區對水的態度截然不同。在日本,打開水龍頭就能流出源源不絕的水;而在以色列,人們則生活在乾旱的地區。
乾ききった苦しみの後に、まことの救い主は、大雨のように、地を潤す春の雨のように、確かに来てくださる。バアルではない。主ご自身こそが潤してくださるのです。
在經歷了乾旱和苦難之後,真正的救主必將如傾盆大雨般降臨,如同滋潤大地的春雨。那不是巴力,而是主自己來澆灌他們。
私たちは様々な出来事を、神の存在を抜きにして考えがちです。しかし人間の最大の罪は「神を忘れること」です。
我們往往在思考各種事情時不去考慮上帝的存在,但人類最大的罪過就是「忘記上帝」。
詩篇14篇でも「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行なう。・・・すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。」と記されています。
詩篇14篇也說:“愚頑人心裡說:‘沒有神。’他們敗壞,行可憎的事……他們都偏離了正道,變得無用。”
神をいないと考え、求めようとしないことこそが最大の罪であり、人間の様々な腐敗した行動は、神を忘れたことの結果なのです。
「主を知る」とは「主を愛する」ことでもあります。私たちを造り、生かしてくださっている方を深く知っていくなら、その愛を味わい、私たちも愛する者へと変えられていきます。
最大的罪就是認為上帝不存在,也不尋求祂;人類的許多敗壞行為都是因忘記上帝而導致的。
「認識主」也意味著「愛主」。當我們深深認識那位創造我們、賜給我們生命的主時,我們就會經歷祂的愛,並被改變成愛人的人。
神はご自身の民を、何度も無視され、裏切られながらも愛し続けてくださいました。神は、私たちがますます深く神を知ることを、また、何度倒れても、離れても、繰り返し神のもとに帰って来ることを望んでおられます。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒し、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」
即使祂的子民一次又一次地被忽視和背叛,上帝仍然愛他們。祂渴望我們更深地認識祂,一次又一次地回到祂身邊,無論我們跌倒多少次,背離多少次。 「讓我們歸向耶和華,因為他撕裂我們,也必醫治我們;他擊打我們,也必包紮我們。”
祈り