ルカ24:13~35「復活の主とともにあゆむ」
路加24:13~35「與復活的主同行」
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おはようございます。先日の台湾での大きな地震に心を痛めています。皆さんの親せき、ご友人のご無事とその後の生活が守られますようにと祈ります。
2週間前、私たちはイースターでイエス様の復活をお祝いしました。けれども実際、「復活さえなければキリスト教を受け入れられるのに!」と言う人がいます。それは理解できますね。十字架で殺されたはずの人が、よみがえり、兵士が見守り封印されている墓の中から忽然と姿を消し、部屋に閉じこもっている弟子たちの真ん中に突然現れ、幽霊ではないしるしとして魚を食べたというのです。イエス様の弟子たちにさえ信じがたいことでした。まして現代の人々には作り話にしか聞こえないかもしれません。しかし、この復活なしに、主イエス様が全世界の王と認められることはあり得ません。
とはいっても、疑い悩む人にイエス様は、「復活を文字通り頭から信じなければ、あなたはダメだ!」などと迫るのではなく、別のアプローチをなさいました。今日はそこから神様のみこころを教えられたいと思います。
早安!我對台灣最近發生的大地震感到心痛。祈禱您的親友平安,今後的生活受上主保佑。
兩週前,我們在復活節慶祝了耶穌的復活。但其實有人說:「如果沒有復活,我就可以接受基督教了!」這是可以理解的。一個本應被釘死在十字架上的人死而復生,突然從一個被士兵看守的墳墓中消失,突然出現在被關在房間裡的門徒們中間,為了證明他不是鬼,還吃魚(給大家看)。這連耶穌的門徒都難以置信。更何況對現代人來說,這可能聽起來像是個神話。然而,如果沒有此次復活,主耶穌就不可能被承認為全世界的王。
然而,耶穌並沒有告訴那些持懷疑態度的人,“如果你不真的相信復活,那你就完蛋了!”,耶穌而是採取了不同的方法。今天我想從此處說明神的心意。
1.復活の主と暗い顔の二人
「ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が……」(v.13) とありますが、その「弟子たち」とは、(v.11) にあるように、主の復活に関する証言を「たわごとのように思えたので…彼女たちを信じなかった」人たちでした。
「彼女たち」の名前は、24:10「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア」と三人はっきりと記録されています。23章を見ると、彼女たちは男性の弟子たちとは違って逃げることなく、イエス様の十字架を「離れたところに立ち、これらのことを見ていた」「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」であり (23:49)、「イエスのからだが(墓に)納められる様子を見届けた。」と描かれていました。(23:55) これを読むと、イエス様に対する愛は弟子たちよりも彼女たちの方がはるかに深いように思われますが、男性の弟子たちはこの女性たちのことばを信用しようともしませんでした。
1.復活的主與滿面愁容的兩個人
聖經寫道:「同一天,門徒中有兩個人……」(13節),但正如(11節)一樣,「門徒」是認為主復活的見證為「無稽之談……不相信她們」。
這三個「女人」”的名字被清楚地記錄下來,24:10「抹大拉的馬利亞、約亞娜、雅各的母親馬利亞」。翻看第23章,我們看到,她們與男性門徒不同,這些婦女並沒有逃跑,而是「遠遠地站著觀看耶穌被釘十字架」。她們是「從加利利跟隨耶穌的婦女們」(23:49) ,並且「看著耶穌的屍體被安置在墳墓裡。」(23:55)。讀到這裡,似乎這些婦女對耶穌的愛比門徒的愛更深,但男性門徒甚至不想相信這些婦女的話。
といってもペテロは、イエスの墓の様子を見るために走って向かい、墓が空っぽなのを確認しました。ところが今日出てくる二人の弟子はそのような行動を取ることもなく、弟子たちが集まっていたエルサレムを離れ、そこから11㎞離れたエマオという村に向かうところでした。(池袋からだと渋谷あたりまでの距離なのでそう遠くはないですね)彼らは墓を見に行くわけでも、他の弟子たちとともに旧約聖書を読み直したり祈ったりするわけでもなく、主の弟子たちの交わりを背にして、ただ「話し合ったり、論じ合ったり」(v.15) しているだけでした。
然而,彼得跑去看耶穌的墳墓,卻發現裡面是空的。可是,今天出現的兩名門徒並沒有採取這樣的行動,而是離開了門徒聚集的耶路撒冷,前往11公里外一個名叫以馬忤斯的村莊。 (若以池袋來說,其距離大約就在澀谷附近,所以並沒有那麼遠。)他們不是去看墳墓,也不是重讀舊約,也不是和其他門徒一起禱告,而是避開和主的門徒交流,僅僅「互相交談、討論」(15節)。
するとイエス様が近づいて来て「歩きながら互いに語り合っているその話は何のことですか。」と尋ねると (v.17)、「二人は暗い顔をして立ち止まった」。のちの時代に信仰を持って生きている私たちにとって、これは笑ってしまうシーンです。というのは、復活された愛する先生イエス様ご自身に語りかけられているのに「暗い顔」になっているというのですから。
就在這個時候,耶穌走到他們面前,問他們:「你們一邊走,一邊談論些什麼呢?」(17節)然後,「他們就站住,滿面愁容」。對於我們這些後世有信仰的人來說,這是一個有趣的場景。這是因為,儘管已經復活,而且心愛的老師耶穌本人找他們說話,但他們卻「滿面愁容」。
「そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。」 (v.18) 彼は話しかけてきた人(イエス様なのですが)が自分たちの話の内容を分からないということ自体に驚き呆れ、「あなただけがご存じないのですか」(v.18) と、その愚かな質問をした人、愛する先生イエス様を責めるように答えます。厳密には「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起ったことを、あなただけがご存じないのですか」と記されていて、イエス様がエルサレムの街のすぐ外で処刑されたことは、彼らにとってすべての世界の終わりを意味していたようなもので、それを知らない人がいるということ自体が彼らの心をなお暗くしたのかもしれません。
「其中一個名叫革流巴的,問耶穌」(18節)他很驚訝找他說話的人(雖然是耶穌)不曉得他們談話的內容,「難道你是唯一不知道的人嗎?」(18節)他問了耶穌這個愚蠢的問題,彷彿責備心愛的老師耶穌一樣。嚴格來說,聖經上記載著「難道你是耶路撒冷的旅客中,唯一不知道這幾天在那邊發生了什麼事的人嗎?」,耶穌在耶路撒冷的郊外被處刑,這對他們而言就像世界末日,所以有人不曉得(耶穌被釘死在十字架)一事,可能會讓他們心情更加沉重。
同じように、私たちの心が暗い状態になっているとき、あらゆることが失望の材料になってしまうことがあります。
この責めるような問いに、イエス様はとぼけるようにたった一言、「どんなこと?」(19節原文「ポイア」) と答えます。イエス様は、彼らの前に立ちはだかってご自身を現し、一気に彼らの不信仰を正すこともできたはずですが、疑う者とともに歩み、彼らの絶望感と困惑を優しく聞き出すことを選ばれたのです。
同樣的,我們心情沉重時,所有的事物都可能變成絕望的材料。
針對這個責備性的問題,耶穌彷彿裝傻般僅回答「什麼事呢?」(19節原文「POIA」)。耶穌本來可以站在他們面前,顯現自己,並且立即糾正他們的不信,但祂選擇與那些懷疑的人同行,溫柔地傾聽他們的絕望和困惑。
(v.20-21)「私たちの祭司長や議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」
(v.23-24)「仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻ってきました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げたというのです。」
(20-21節)「我們的祭司長和首領竟把他解去,判了死刑,釘在十字架上。 我們原來盼望他就是要來拯救以色列的那一位!而且,這事發生已經三天了。」
(23-24節) 「我們當中有幾個婦女使我們很驚奇,她們一早到墓穴那裡去,沒有看到他的身體。她們回來報告說,她們看見了天使,而天使告訴她們耶穌活著。
我們當中有人到墓穴去看,發現一切都跟婦女們所說的一樣,可是沒有看見他。」
彼らのこの説明から察する彼らの主張は、期待は裏切られたということと、あり得ない知らせに戸惑っていたということです。 そればかりか「仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」と続けて説明し、彼らは「彼女たちの言ったとおり」と言いながら、御使いのことばなど、まったく無視していたことが分かります。
從這個解釋我們可以看出,他們的意思是,他們的期望落空了,他們對不可置信的消息感到困惑。不僅如此,他們還繼續解釋說:「我的一些朋友去了墳墓,但如同她們所說,他們沒有找到耶穌。」你可以看到他們雖然口中說:「如同她們所說」,但實際上他們完全無視天使的話。
マタイ福音書によると、祭司長とパリサイ人は、イエス様が「わたしは三日後によみがえる」と予告していた復活の預言が実現したと言われないように、墓に番兵をつけるように総督ピラトに願っていました (27:62-64)。ですからこの二人の弟子は、これをイエス様の身体が盗まれて、復活預言が否定され、自分たちもが「迫害を受ける原因」になると受け止めたのでしょう。
しかし、現在の私たちにとって、イエスの十字架こそすべての「望み」の原点であり、墓が空っぽだったという事実こそ、復活の証拠です。人は時々、同じ出来事をこのようにまったく正反対の受け止め方をしてしまうことがあります。それは、神の救いのご計画の全体像を知ることができていないためです。
根據《馬太福音》記載,祭司長和法利賽人命令彼拉多總督把守墳墓,免得有人說耶穌預告的:「三天後我要復活。」的預言應驗了(27:62-64)因此,這兩個門徒可能認為這是耶穌的身體被盜,復活的預言被否認,而他們自己也成為「受迫害的原因」。
然而,對今天的我們來說,耶穌的十字架是我們所有「希望」的根源,而墳墓是空的這一事實證明了祂的復活。人們有時會以完全相反的方式看待同一事件。這是因為我們無法了解神的救贖計畫的全貌。
2.「苦しみの後、栄光」という聖書のストーリー
イエス様は、彼らを「愚かな者たち、心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と責めながらも、優しく彼らの誤解を正します。
その際、26節で「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか」
と語られました。7節でも「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と記され、後の44節では「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」と記されています。
2.「痛苦之後、榮光」聖經的故事
儘管耶穌責備他們是「駑鈍的人,對先知所說的話你們覺得難以相信」,他還是溫柔地導正他們的誤解。
當時,在第26節說:「基督不是必須經歷這一切才進入榮耀嗎?」。在第7節也有記載「人子必須被交在罪人手中,釘在十字架上,在第三天復活」。在後面的第44節寫到「摩西的法律、先知的書,和詩篇所敘述關於我的每一件事,都必須實現」。
「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めてご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」(27節) イエス様は、かなりの時間をかけられたのでしょう。単にイエス様について預言されている聖書箇所を羅列するのではなく、聖書全体のストーリーを要約するという感じだったでしょうか。
「於是,他根據摩西和先知所寫的,開始向他們解釋聖經上關於自己的一切記載。」(第27節)。耶穌想必花了很多時間吧! 不只是單純羅列聖經中出現關於耶穌預言的經文,而是概括聖經整體故事的感覺吧!
◆たとえば、創世記3:15。女の子孫である「救い主」が蛇にかかとをかみつかれながらも、蛇の頭を踏み砕くという話は、既にここに「苦しみを受けて、栄光に入る」ことが預言されていると言えます。
◆また、ヤコブとヨセフの生涯にも「神がともにおられる」ということを見ることができますが、それぞれの最初には驚くべき苦難がありました。ヤコブは家族から離れて伯父ラバンのところに行きましたが、伯父から散々騙されつつも12人の息子を得、豊かにされました。息子の一人ヨセフは、兄たちから奴隷に売られ、さらに無実の罪で投獄されることを通して大国エジプトの大臣にまで引き上げられました。神がともにおられる中で彼らは苦しみました。しかし、それを通して栄光を受けました。
◆また、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトから救い出されましたが、その前の四百年は奴隷として苦しんでいました。
このように聖書全体で、苦しみを通しての救いが記されています。
◆イエス様のお姿もイザヤ書52~53章に預言されます。「(52:13)見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」「(53:4)まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……(53:10)しかし、彼を砕いて病を負わせることは主 (ヤハウェ) のみこころであった」 と続きます。
◆譬如說,創世記3:15。女人子孫「救世主」被蛇咬住腳踝,還是踏碎蛇的頭部的故事,就可說是已經預言了「受苦進入榮光」。
◆還有,雅各與約瑟的一生中也可以看見「上主的同在」,但在最一開始,他們都各自有驚人的苦難。雅各離開家人,前往叔叔拉班的家,但是被叔叔多次欺騙,得到12個兒子,家道豐盛。其中一位兒子約瑟,被哥哥們賣去當奴隸,還蒙受冤罪,被提升到大國埃及的地位。在與上帝同在中,他承受苦難。不過,透過這些苦難,他接受榮光。
◆此外,以色列人在摩西的帶領下被從埃及拯救出來,但在此之前他們已經經歷了四百年的奴隸苦難。
就這樣,整本聖經都記載了通過苦難得救的事。
◆以賽亞書 52-53 章也預言了耶穌的出現。 「(52:13)我的僕人要完成使命;他要受讚美,得到最大的榮譽」「(53:4)他承當了我們的憂患;
他擔負了我們該受的痛苦。……(53:10)他挨打受苦是我的旨意;
他的死是贖罪的祭。」
ところが弟子たちは、神が遣わした救い主なら十字架などで苦しむはずはないと思っていました。けれども、実際聖書はすでにその逆のことを語っていたのです。苦しみを通して救いが実現するということです。私たちも、自分の期待や理想に縛られて、神様が準備しておられる救いのストーリーを誤解してはいないでしょうか。
然而,門徒相信神所差來的救主不會在十字架上受苦。不過,聖經實際上說的恰恰相反。意思是說,透過苦難才能獲得救贖。我們是不是也被自己的期望和理想所束縛,誤解了神為我們預備的拯救故事呢?
3.目が開かれた
イエス様は、彼らに聖書を語り終えたので、エマオの村に近づいたとき、彼らから離れてもっと先まで行きそうな様子を示します (v.28)。しかし、二人の弟子は「一緒にお泊まりください」(v.29) と強く勧めます。それでイエスは、彼らとともに泊まるため、中に入られました。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました(v.30)。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった(v.31) というのです。
3.眼睛開了
耶穌向他們講完了聖經之後,當他接近以馬忤斯村時,他似乎要離開他們,繼續往前走(第28節)。然而,兩個門徒「強烈要求他留下來和他們一起住下」(第29節)。於是耶穌進去與他們一同住下。當耶穌坐下來和他們一起吃飯時,他拿起餅來,讚美神,擘開,遞給他們(第30節)。然後他們的眼睛就開了,認出了耶穌(第31節)。
この「目が開かれる」体験は、目の前におられる方が復活された主イエス様だという事実の確認につながり、愛の交わりの回復につながり、平安と勇気が生まれたのです。
私たちが主の臨在を味わえない理由に、自己満足に浸ってイエス様との交わりを求めないことと、イエス様を自分の心の王座に置きたくないという思いが邪魔となっている場合があります。彼らはこの時、自分たちにみことばを説き明かしてくださった方こそが、自分たちの飢え渇きを満たしてくださる主であることを知ったのです。
這次「眼睛開了」的經歷,讓他們事實確認了眼前的人就是復活的主耶穌,從而恢復了愛的團契,生出平安與勇氣。
我們之所以不能享受主的同在,是因為我們變得自滿,不尋求與耶穌的交通,不願意將耶穌放在我們心中的寶座上。那時,他們意識到向他們解釋聖經的那位就是能滿足他們飢渴的主。
皆さんは神様の救いを漠然と、抽象的に考えてはおられないでしょうか。主の臨在は、私たちの日常生活のただ中で体験できるものです。日曜日のこの会堂に来ないと味わえない恵みではありません。皆さんの日常生活の中でまさに「目が開かれる」体験、主の臨在を味わう経験ができるのです。
その後、「…その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちに燃えていたではないか、』」(v.31、32) と描かれます。かつてはイエスの身体が見当たらないことが暗い顔の原因だったのに、今は違います。復活されたイエス様が、目には見えなくても、ともにおられると分かったのです。
你對神的救恩的看法是否模糊或抽象?我們可以在日常生活中體驗到主的臨在。並非你週日不來這間教會就無法體驗到此種祝福。在日常生活中,你能真正有「眼睛開了」的經歷,享受主同在的經驗。
之後,聖經上記載「…但是耶穌忽然不見了。他們彼此說:『他在路上向我們說話,給我們解釋聖經的時候,我們的心不是像火一樣地燃燒著嗎?』」(第31節、第32節) 過去,找不到耶穌的屍體是面帶愁容的原因,但現在不同了。他們意識到復活的耶穌與他們同在,儘管他們看不見他,也明白耶穌在他們身邊。
皆さんはどうでしょうか。今までの人生で、みことばが不思議に心に響き、心燃やされた体験があったのではないですか。そこに主はおられたのです。
その後、この二人の弟子は、もう日が暮れたというのに、怯えることもなく急いでエルサレムの仲間たちのもとに戻りました。その日の午後、「暗い顔」で交わりから離れた二人が、喜びに満たされてそこに戻り、そこで他の弟子たちとともに「本当に主はよみがえられた!」とともに喜び合い、「道中で起ったことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話し」ているのです (v.33、34)。それは私たちにも起こることです。イエス様は群れから離れようとしている人に現れ、その人をご自身の交わりに戻してくださるのですから。
各位如何呢?在你的生命中,你是否有過這樣的經驗:神的話語以一種神祕的方式觸動你的心,讓你的心燃燒起來?主在那裡。
隨後,這兩個門徒便毫無畏懼地趕回了耶路撒冷的同伴那裡,儘管天已經黑了。當天下午,離開團契的兩個「滿面愁容」的門徒滿懷喜樂地回來了,他們和其他門徒一起歡呼說:「主真的復活了!」他告訴他們,路上發生的事、當耶穌擘開餅時,他們認出耶穌的經過(第 33、34 節)。這也會發生在我們身上。耶穌向那些離開團契的人顯現,並帶他們回到與祂的團契中。
教会で行われる聖餐式は、まさに主ご自身が私たちのためにパンを裂いて、分け与えてくださる体験、またそれを通して私たちの霊の目が開かれ、主イエス様の臨在を喜ぶ体験でもあります。
もしかしたら皆さんも「暗い顔をして」教会の交わりから離れたくなる時があるかも知れません。そんな時神様は、不思議な方法をもって霊の目を開いてくださいます。悩みを聞いてくれる同伴者が与えられるかも知れません。みことばの解説をして理解を助けてくれる同伴者が与えられるかもしれません。
復活された主イエス様が、この、期待を裏切られ、恐れに囚われて、交わりから離れようとしている二人の弟子とともに歩み、彼らのぼやきを聞いてくださったことは、私たちにとっても大きな慰めと期待に繋がっています。
在教會裡舉行的聖餐是一種經歷,主親自為我們擘開餅,分享麵包,透過它,我們屬靈的眼睛被打開,我們因主耶穌的臨在而喜樂。
有時候,你可能也會「面帶愁容」,想離開教會的團契。在這種時候,神會以一種神祕的方式打開我們的靈眼。你可能會得到一個願意傾聽你的煩惱的同伴。你可能會得到一位可以解釋神的話語並幫助你理解的同伴。
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