2026年3月30日 星期一

主設立聖餐

 

宣召:詩篇62:1-2

題目:主設立聖餐」「主による聖餐の制定」

 

聖經:馬太26:26-29

聖詩:88(1-4),365,581,397

:9

 

 

大家平安!

今年的3/29棕樹節,在紀念主耶穌受難之前,我們今天我們一起來恭守聖餐,來紀念主耶穌的救恩。

聖餐的場景起初是在2000多年前所發生的事情。歷代信徒工守聖餐,緬懷主恩,這聖餐是象徵著信徒與主所立的新約,罪得赦免並領受恩典。

今天我們在受難週的第一天來與耶穌一起來經驗受苦,再一次來思考有關人生當中受難的意義。

 

皆様に主の平安がありますように。

今年の3月29日は棕櫚(しゅろ)の主日です。主イエスの受難を記念する前に、私たちは聖餐を共に守り、主イエスの救いの恵みを記念しましょう。聖餐は、もともと2000年以上前に起こった出来事です。歴代の信徒は聖餐を守り、主の恵みを慕い求めてきました。この聖餐は、信徒と主との間に結ばれた「新しい契約」を象徴しており、罪が赦され、恵みを受けることを意味しています。 受難週の初日にあたる今日、私たちはイエスと共に苦しみを経験し、改めて人生における「受難(苦難)」の意味について考えてみたいと思います。

 

 

 

一、紀念逾越節

馬太26:26-29

馬太福音在這一段聖經節裡,強調了耶穌和門徒一起一起吃逾越節的宴席。

 

有關「逾越節」,我們也可以參考民數記9:1-14

記載著紀念上帝的拯救的節期。這是以色列人世世代代追思上帝在「出埃及」時所施行的拯救。

 

「出埃及」,這一個古代的記憶,記載著摩西受上帝所揀選來引導以色列百姓脫離埃及法老王統治的故事。

 

 法老王統治著全埃及全地,以色列百姓做苦工,上帝通過了摩西要引領百姓脫離苦難。法老王不肯,雖然經過了九個災害,法老王還是硬著心不要讓以色列百姓離去。

 

 當第十災發生,就是上帝先吩咐百姓們預備羊羔的血塗抹在門上做記號,上帝差遣了使者越過以色列百姓的家,去打擊埃及全境內的長子。那晚,以色列人攜帶著苦菜和無酵絣,在上帝的帶領之下匆忙離開受苦之地埃及。後來,這一個「逾越節」,成為以色列人一種重要的節日。紀念著上帝在以色列百姓苦難中得到拯救的故事。

 

一、過越(すぎこし)の祭を記念する

(マタイによる福音書 26:26-29)この箇所では、イエスが弟子たちと共に「過越の食事」をされたことが強調されています。

「過越」については、民数記 9:1-14 も参照することができます。 そこには、神の救いを記念する祝祭について記されています。イスラエルの人々が代々にわたって、神が「出エジプト」の際になされた救いを追想するためのものです。

「出エジプト」という古代の記憶は、モーセが神に選ばれ、イスラエルの民をエジプトのファラオの統治から連れ出した物語を記しています。 ファラオはエジプト全土を統治し、イスラエルの民に苦役を課していました。神はモーセを通して民を苦難から導き出そうとされましたが、ファラオは拒みました。九つの災いを経てもなお、ファラオの心は頑なで、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。

第十の災いが起こるとき、神はあらかじめ民に対し、子羊の血を門柱に塗って印とするよう命じられました。神は使いを遣わし、イスラエルの民の家を「過ぎ越して」、エジプト全土の長子を打たれました。その夜、イスラエル人は苦菜(にがな)と酵母を入れないパン(無酵母パン)を携え、神の導きのもと、苦難の地エジプトを急いで脱出しました。後に、この「過越」はイスラエルの人々にとって重要な祝祭となり、苦難の中にあるイスラエルの民を救い出した神の物語を記念するものとなりました。

 

 

 

二、聖餐的意義

 今天我們所讀的馬太26章,記著耶穌吩咐學生進耶路撒冷城去到了某人那裏,(這裡所說的「某人」是指馬可,據信馬可福音是四福音書中最早的資料,)

對他說:「我的時候快到了,我與門徒要在你家守逾越節。」

門徒們果然尊著耶穌所吩咐的,就去預備了樂節的筵席。

經文記著:到了晚上,耶穌和十二個門徒坐席。

 

 他們吃的時候,耶穌首先拿起餅來祝福,就剝開遞給門徒。「你們拿著吃,這是我的身體。(馬太26:26)

  「餅」是代表耶穌的身體,為眾人所剝開,代表了耶穌為眾人犧牲,分享給眾人的,耶穌吩咐弟子們應該如此行來紀念祂。

 

   接著,耶穌又拿起杯來,祝謝了,遞給他們,說,「你們都喝這個,因為這是我立約的血,為多人流出來的。使罪得赦。但我告訴你們,從今以後我不再喝這葡萄汁,直到我在復的國度裡童你們喝新的那日子。(馬太26:27-29)

 

  「葡萄汁」是表示耶穌的犧牲所流的寶血,祂的愛讓我們可以嘗到了。這寶血所立的約是新的約,是表示耶穌用寶血來潔淨我們,赦免了我們,讓我們有得救的盼望。

 

    耶穌所說的話句句都深入弟子們的心,他們按著耶穌所說的話來領受了聖餐,這聖餐成為世界上紀念耶穌拯救的記號。我們今日也是按著主耶穌所設立的聖餐來行,目的是來紀念主耶穌他犧牲自己的愛心。

因為這是上帝愛我們的證據,是給我們每一個人都有份的恩典。

 

二、聖餐の意義

今日私たちが読んでいるマタイ26章には、イエスが弟子たちにエルサレムの都へ入り、「ある人」のところへ行くよう命じたことが記されています。イエスはその人にこう言われました。「わたしの時が近づいている。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をすることにしている。」 弟子たちはイエスに命じられた通りにして、過越の食事の準備をしました。 聖書にはこう記されています。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。」

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ 26:26)

「パン」は、人々のために裂かれたイエスの体を表しています。それはイエスが皆のために犠牲となり、分かち合われたことを意味しています。イエスは、このように行ってご自身を記念するようにと弟子たちに命じられました。

また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたたちと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してない。」(マタイ26:27-29)

「ぶどう酒」は、イエスの犠牲によって流された尊い血を表しており、その愛を私たちは味わうことができます。この宝貴な血によって立てられた契約は「新しい契約」であり、イエスが血をもって私たちを清め、赦し、救いの希望を与えてくださることを示しています。

 

イエスの言葉の一つひとつは弟子たちの心に深く刻まれました。イエスの言葉に従って聖餐を受け、この聖餐は世界においてイエスの救いを記念する印となりました。私たちも今日、主イエスが定められた聖餐に従ってこれを行います。その目的は、主イエスがご自身を犠牲にされたその愛を記念することにあります。 なぜなら、これは神が私たちを愛しておられる証拠であり、私たち一人ひとりに与えられた恵みだからです。

 

 

三、再次思考人生的意義

今日,我們一起來恭受聖餐,再一次來思考其中的意義。

我們生活在21世紀的現代,豐衣足食,也體驗到了戰爭帶來的不安與苦楚。

 

我們藉這一個機會來反思生命的意義。

「主耶穌~~上帝的獨生愛子,祂一生傳揚上帝國的福音。

祂不是居住在皇宮,反而是與卑微的人一起生活,在不平安的生活中,我們可以祈求祂的幫助。

祂一生就是「上帝愛世人的代表」。

面對十字架的苦刑,祂的內心也有掙扎,祂順服了上帝,為眾人的罪來犧牲了。」這是關於我們生命的故事,

 

 兄弟姊妹們! 我們謙卑的祈禱來領受,出於內心誠懇的相信,我們將要得救了。領受生命之主耶穌臨在我們的心中的喜悅。誠願上帝的恩惠與我們同在! 從今時直到永遠。

 

三、再び人生の意味を考える

共に聖餐にあずかり、改めてその意義を考えましょう。 私たちは21世紀の現代に生き、衣食住には事欠きませんが、同時に戦争がもたらす不安や苦しみも経験しています。

この機会に、命の意味を振り返ってみましょう。「主イエス、神の独り子。主はその生涯をかけて神の国の福音を宣べ伝えられました。 主は王宮に住むのではなく、むしろ卑しい立場の人々と共に生活されました。平安のない生活の中で、私たちは主の助けを求めることができます。 主の生涯そのものが『神の世への愛の体現』でした。 十字架という苦しい刑罰を前にして、主の心の中にも葛藤がありましたが、主は神に従順であり続け、すべての人々の罪のために犠牲となられました。」これは、私たちの命に関わる物語です。

兄弟姉妹の皆さん! 謙虚に祈りをもってこれを受けましょう。心の底から誠実に信じることで、私たちは救いを得るのです。命の主であるイエスが私たちの心に臨在される喜びを受け取りましょう。 どうか神の恵みが私たちと共にありますように。今も、そしてとこしえまでも。

 

 

祈禱: 感謝主!,通過今日聖餐,我們再一次來明白主愛的救恩。

願主的平安與眾兄弟姊妹同在。 祈禱奉靠主的聖名 阿們

沒有留言:

新的生命

  題目 : 新的生命   經文 ◎「所以,若有人在基督裏,他就是新造的人,舊事已過,都變成新的了。」 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 」— コリントの信徒への手紙二 5 章 17 節 ...