2026年9月15日 星期二

完全無欠の人の癒しーナアマン

 



おはようございます。先週は各地で大雨の影響が続きましたが、皆様とご家族の生活は守られているでしょうか。今月もご一緒に主を礼拝できる特権を感謝します。

今日読んでいただいたのは、イスラエルにとっては敵国の軍隊の長のストーリーです。このころ、北イスラエルは北東部に位置するアラムとの間で、度々戦争がありました。ここに出て来たのはそのアラムの国の将軍、ナアマンという人です。

1.誰もが羨むものを持っている人、ナアマン

ナアマンは、アラムの王様に重んじられ、尊敬されている人でした。理由は、彼はが敢で、戦いでは常に勝利の先頭に立っているような人だったからです。(v.1)に「主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたから」とあります。


 アラムという国は、かつてイスラエルに偶像を持ち込み、唯一の神様を礼拝することを軽んじたアハブ王を打ち取ってイスラエルを霊的に最悪な状況から救い出したことがありました。

ナアマンがその戦いの将軍だったかどうかを聖書は記していませんが、彼が軍隊を勝利に導いたのは1度や2度ではなかったでしょう。


ですから、王様には重宝されますし、それだけでなく、自分の家族やしもべたちからも愛され、敬われていたと思うのです。たとえば、3節に出てきた、イスラエルから捕虜として連れてこられた娘のことばや、13節のしもべたちのことばを読むと分かります。

仕える者たちからも、ナアマンのことを想う、愛にあふれたことばを引き出したのは、慕われていた証拠だと思います。地位のある立場にありながら、人々に愛され敬われる人格者だったのでしょう。


また、5節を見ると、彼が持っていた財産は莫大だったと想像できます。新改訳聖書の脚注を見て計算すると、彼が持って行った贈り物は、銀340キロ、金68キロ!?驚くような分量です。王様が持たせてくれたものもあったでしょうが、もしこれが純金だったら、今の価値で言えば約16億円!これが純金でなかったとしても、びっくりするほどのものを彼は持っていました。まさに人生の成功者と言えるような人です。

2.が、実は

ところが、この人はツァラアトという皮膚の病気を患っていました・・・。
ツァラアト:「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」を描写しています。(第3版「あとがき」より)ですから、特定のひとつの病気を指すものではありません。様々皮膚の異常状態をまとめて現わしていました。「物の表面」とあるように、布や皮のカビや、家の壁に出てくる変色やカビのような現象もツァラアトと呼ばれていました。聖書の律法では、ツァラアトと判断されると、コミュニティーの外に住み、人々から離れて暮らすことが求められました。


能力も、立場もあり、経済的にも豊かで、人間的にも立派で、さぞかし素晴らしい人生を送っている人と思いきや・・・人知れず、悩んでいることがありました。いや近くの人たちはきっと気づいていたでしょう。ナアマン将軍は重い皮膚病に苦しめられていたのです。彼の輝かしい人生に暗い影を落としていたのがツァラアトだったのです。

この世界にも暗い影が広がっています。今の時代は、とても豊かで便利になったと言われるけれど、どれほど便利になっても、戦争や飢餓や貧困がなくなりません。ここまで医学が発達しているのに、コロナのように、世界中が一気に不安や恐れに支配されることも起こります。研究が進み、様々な技術が発展しているのに、自然の力の前では人は無力であることを痛感させられます。


100%完全な世界なんてないのです。罪がこの世界に入ったからです。

ローマ5:12「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り・・・」

罪があらゆる人々を傷つけ、苦しめ、絶望させています。


人間もそうです。完全無欠の人なんていません。その人自身でなくても、家族や、その人をとりまく環境に問題があったりします。誰もが様々な痛みや悲しみを経験します。何か欠けている、傷んでいる状態です。


そして、その解決方法を知らないというのが多くの人たちの現状だと思います。ローマ3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」

とあるように、私たち自身が一人残らず罪人だからです。


ナアマンは、国中の腕の良い多くの医者に診てもらったでしょう。けれども良くなりません。どうしようもなかった。人間のあらゆる試みも、彼に癒しや解決を与えませんでした。

3.救い、癒しを得る—―意外なやり方で

そんなナアマンですが、妻に仕えていた若い娘の奴隷のことばをきっかけに、新しい道に踏み出すことになりました。

「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その肩がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

一人の奴隷の、主人を想う言葉を受け取ったナアマンは、アラムの王様に言って紹介状を書いてもらい、たいそう立派な贈り物を携えて、馬と戦車で仰々しく、敵国イスラエルの王のところに向かったのです。


これはアラムと北イスラエルという二つの国をまたがった動きであり、本人だけでなく、王様たちにとっても大きな注目と期待が寄せられていたと想像します。


 ところがイスラエルの王様は、アラムの王様からの手紙を読み、激しく怒ります。自分がツァラアトを治せと言われていると受け取ったからです。実際、奴隷の娘は「預言者のところ」に行くように勧めたのですが、そうは書いていなかったようですね。私たちにとってもこのようなミスコミュニケーションはありがちだと思います。それによって不必要な衝突を生んでしまう事は多々あります。


 でも神様はそこにも介入してくださいます。「神の人エリシャ」が助け舟を出し、元々ナアマンが行くべきところに導かれていくのです。


 そもそも、神の人、預言者エリシャはどんな人かというと・・・BC850年ごろから、預言者としての活動を始めました。先輩エリヤに替わって北王国イスラエルで仕えた偉大な預言者の一人であり、偶像バアルを拝む人々との戦いを展開しました。彼は約50年間、4代の北イスラエルの王様たちに仕え、その生涯の最期(Ⅱ列王記13:14~)には王様が見舞いに来て泣き伏したなどと記されていることから、国だけでなく、王にとっても大きな影響力を持つ存在だったことが伺えます。


そんな預言者エリシャなのですが、敵国の将軍ナアマンが威儀を正して、馬と戦車でやってきた時の様子が驚きです。

10節「エリシャは、彼に使者を遣わして言った。」

なんと彼は、客人が入口まで来ているのに、玄関から出てきて歓迎することもなく、人を介した「伝言」で、「ヨルダン川に行って七回身体を洗いなさい」と指示をしました。


皆さんがナアマンだったらどう思うでしょうか。どう反応しますか。仮にもアラムの国では王様に重んじられている将軍です。この場にも大勢のしもべを引き連れてやってきたのです。


11節を見てください。彼は激怒しました。遠いところから王様の紹介状と相当な贈り物を携えてやってきたのに、自分が予想していた対応はなく、おまけに提示されたのが想像していた治療方法ではなかったからです。このことは彼のプライドを大きく傷つけたことでしょう。川に行って身体を洗う?!そんなの治療になるのか!?


12節の彼のことばから察するに、彼の国の川の方がイスラエルの川よりもずっときれいなのか、立派なのか・・・ともかく、指示された方法はあまりにもばかげている、簡単すぎる!と思いました。


神様が私たちに与えてくださる癒し、救いも同じようにとられます。救われるためには、善い行いを積み重ねていくこと、大きな犠牲を払うこと、と思いきや、「信じなさい。そうすれば救われる。」と言われる。そんな簡単なことでいいのか。それは安っぽくないか。

みことばは言います。

1コリント1:23-24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」


使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」


聖書ははっきりと、十字架にかけられたイエス様を信じることで私たちは救いを受けると言います!確かに、救い主が十字架にかかって死ぬという神様の救いの計画は人間の目で見れば、おかしい、納得がいかないと言うかもしれません。でも神様が私たちのために用意してくださった救いは、そのようなものです。お金を払って得るものでも、善い行いの結果与えられるものでもありません。


 ナアマンの方に話を戻しましょう。絶望的な苦しみの中にいたナアマンは、一度はその場を去りました。納得がいかなくて、憤って帰途についたのです。


 でもそんな時、彼を敬愛するしもべたちが言葉を発しました。

13節「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 確かに!と思います。救われるためには、癒されるためには、ハードルが高いことをする必要があると言われた方が納得しやすいのかもしれません。この言葉を聞いたナアマンは、癒しを受けとるために、しもべたちの勧めを聞いて受け入れ、神のみことば(預言者の言葉)に従いました。


 みことばはあっさりとナアマンがその言葉に従った様子を書き記します。しかしながら、これはなかなか難しいことだと思いませんか。権威ある立場の人が、しもべのアドバイスを聞いて川に一人下りて行き、身体を洗うという行動に出るのは、勇気が要ったでしょう。多くの贈り物を運ぶ家来たちが同行していたわけですから、彼らが注目する中、水辺に行き、病に侵された肌を晒し、預言者の言葉通りに7回洗ったということです。その時のナアマンの心中は、どんなだったでしょう…。


 しかしその行動のゆえに、彼のからだは「元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです!自分の想像とは違っても、ただ神さまの言葉を受け入れて従うことが、救いを受ける道なのです。


 こう考えると、すべてが神さまの計画の内にあったことを思います。彼がイスラエルの敵であるのに数々の戦いで勝利していたこと、でもツァラアトを患っていたこと、イスラエルの捕虜の娘が彼の妻に仕えていたこと、その娘が預言者を紹介したこと、などなど、彼自身は自覚していなかったでしょうが、すべて主なる神さまが導いておられた事で、ナアマンに本当の救いをもたらす手段だったと言えます。

4.あなたの務め

今日、最後に注目していただきたいのは、ナアマンの妻の元で働いていた若い娘です。彼女は、名前すら出てきません。捕虜として異国の地にいたことくらいしか知られていない、ひとりの女の子が、ナアマン将軍の癒しのために大きな役割を果たしました。もちろん、彼女が癒したのではなく、彼女は、神さまの力だけがナアマン将軍の重い病気を癒せると知っていて、それを伝えただけです。


そんな風に、救いのカギになるものは、小さく、目立たないものかもしれません。

私たちもある意味、この娘のように、小さく、目立たない存在と言えます。社会で大きな影響力を持つようなものではありません。けれども、この世のどんなものももたらすことのできない、本当の癒しや救いがここにあるということを指し示すことはできます。


 あなたに与えられた務めは、十字架にかけられたイエス様こそ、本当の救いであり、あなたの罪を赦すことのできる唯一の方であり、悪に打ち勝つ力を与えてくださる方だと紹介することです。

祈り:

主よ。みことばを感謝します。私たちは見ている分には分からないけれど、

あらゆる人が人生で様々な問題や悩み、苦しみを抱えています。

その原因が「罪」であることを教えてくださり感謝します。

そして解決方法も教えてくださり感謝します。

神さまのみことばに従って、イエス様のところにそれを持ってくるならきよめていただけると知りました。主よ、まだそのきよめを、癒しを、救いを受け取っていない人がいるならば、与えてください。

また、すでに受け取っている私たちは、名もなきひとりの娘のように、「ここに救いがある」と人々に紹介する勇気を与えてください。

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萬事有定期

  題目 : 萬事有定期 經文 : 傳道書 3:1-8 新聖詩 :2,613,386 起應文 :33 一、前言。   人生在世間上生活著,有什麼事是重要的呢 ? 從出生,經過一生,最後走到生命的終點。怎麼樣子的終點才是值得我們追求的呢?時間到底是什麼? ...