2012年8月27日 星期一

人間の価値 


  

聖書 コリントの信徒への手紙二 3:18;エフェソの信徒への手紙2:4~10

日時 2012年1月15日

一、        価値ある命

神から70年の人生が与えられたら、あなたはそれをどのように活かすのでしょうか?

詩篇90:10節と12節にはこう記している。「人生の年月は七十年程のものす。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。‥‥生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵のある心を得ることができますように。」

 

世界各国の平均寿命もせいぜいそれぐらいなのでしょう。国によっては飢饉、戦争、不良な衛生環境などでは死亡率が高く、よって平均寿命も自然と引き下げられてくるのです。

命について聖書は昔から、色々な知恵のある御言葉が残されている。

命は神から賜わった一つ機会でもあり、わたしたちは如何にこの一生を過ごすのか?または命に対する態度をとるのかが大事なのです。

 

イザヤ書43:4には「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」

この言葉はイスラエル人(即ち全人類)を指して言っているのです。そして価値あるものとして認められているので、わたしたちは命を疎かにしてはなりませんの。

生命の価値とは?

聖書では、人類は神によって創造された故に、神の子としての価値があると諭している。

 

二、        生命の価値

1)、キリストに見習う

   コリント人への手紙二 3:18「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の 栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の働きによることです。」

は

この意味するところはキリストに目を向けば、最後は主の姿に造り変えられて来るのです。主の姿がわたしたちの命の中に映し出されるのです。

顔の覆いを除かれ、罪から遠のき、主の栄光を浴びるのです。クリスチャンは生活の中でイエスを仰ぎ、キリストに見習うべきです。そうすれば私たちの生活は価値ある希望に満たされるのです。

 

2)、救いは神の恵みによるもの

  エフェソの信徒への手紙2:4~10

2:4  しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、

2:5  罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし…あなたがたの救われ たのは恵みによるものです。

2:6  キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。

2:7  こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。

2:8  事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。

2:9  行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいてつくられたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

4~9節には

人間が罪に苦しめられるも、神の憐れみによって、イエス・キリストをこの世に遣わされたために、わたしたちは救われ、復活の希望に与ることが出来るのです。しかも、救われることは自らの力によるものではなく、神の賜物なのです。

 

10節には、

「わたしたちは神に造られたもの」であると記してあり、神にかたどり、神に似せて造られた故に、神聖であるのです。これまでの挫折や失敗に引きずられることなく、感謝の気持ちをもって善い業を行って歩むことです。

又失敗や挫折に遭われた時は、御言葉により励まされ、曙の光のように益々輝くのです。

 

3)生命の価値

先週水曜日二人の台湾留学生の告別式に参加しました。嫁入り前の初々しいお二人は不幸にも殺され、この世を去り、非常に残念に思います。主の慰めが御遺族の上にありますよう心より願わないわけには参りません。そのことから命について重要な啓示を思い知らされました。「命は大事なものです」から、互いに大切に且つ尊重したいものです。

 

去年の3月11日東日本大震災で、一万人以上の命があっと言うまの間に失われ、実に悲しい出来事です。天災に人災が加わり、人生には多くの疑問が解決を待っている。わたしたちはより積極的な態度と勇気をもって来るべき日々に向きあいたいと思います。

 

三、        結論

人間とはなにものでしょうか?

ギリシャのある哲学者が人間を「二本の足を持って体に毛が生えていない動物」と定義したところ、好んで彼と弁論をしていた人が、羽毛を剥がされ体がツルツルになった一羽の鶏を哲学者の玄関先に投げ捨てて言った。「人間が来たよ」と。人間はそういうものではなく、人間は動物でありながら、信仰と霊的なものを兼ね備えたものです。

 

神はわたしたちに命を授けられました。現実には人間は弱く欠点のあるものです。しかし、主イエスキリストはわたしたちを受け入れられました。ですから、わたしたちは自暴自涜のないよう自分を受け入れるべきです。神は、わたしたちに神に栄光を帰す機会を与えられました。エフェソの信徒への手紙2:10節「神が前もって準備してくださった善い業のために‥‥」神から授かった人間の価値に相応しく善い業を行うよう努力をするべきです。そして、一歩一歩歩みながら互いに分かち合うことを体験するのです。

神によって造られた人間としての意義に相応しく‥‥この世に於いて、ハーモニ且つ平和な人との繋がりと神との関係を再構築すべきです。…‥「恵みにより、信仰によって救われた。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」。(エフェソの信徒への手紙2:8)。

 

人間は価値あるものですから、更なる喜びをもって来る日を迎えましょう。

                                                                

 

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