イエス・キリストから慰めを得よう
人生で最大の試練は「孤独」です。もし、あなたが住み慣れた所を離れて、見知らない所へ移り住んだら、先輩たちの助言、友人の助け、それに神に寄り頼る堅い信仰がどうしても必要です。先輩たちの助言、友人の助けは、心を温め、慰めるが、本当の慰めは天におられる神から来ます。永久に生きる神と共に人生を歩める事は、何よりもの慰めです。
本日は聖書の御言葉で考察していきたいと思います。
一、 主に寄り頼って慰めを得る
コリントⅡ-1:5 で「主にあって、喜びなさい」と。パウロはコリント教会内部の問題で、二度手紙を書き送って「苦しみの中にある私達は、満ち溢れる恵みをイエス・キリスト
から受ける」と説いた。又、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方
の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
慰めの内実は神の愛であるとパウロは指摘する。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 主イエスが天に挙げられた後に、聖霊を下し、私達の祈りを、神にとりなしてくれるようにしたのです。
祈りとは、神との交わりです。苦難に際し、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明ければ、聞き入れてもらえるのです。祈りの中で、聖霊の感動と共に、心の枷が解き放され、思い煩う事がなくなり、心身共に穏やかになれるのです。そして、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるのです。
癒しの力はイエスから与えて下さったもの、その力によって、あらゆる苦難から解放されるのです。祈りは神の恵みへの入り口、神は御自分を求める者達に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。どうか、こぞって御恵みを預かりましょう。
二、慰めの意義
旧約聖書から学べるように、イスラエル人が自由を失った捕囚時代で、最大な慰めは、いずれメサイアが現れ、彼らを苦難から救い出すことです。救いは彼らを悲しみから喜びへと導き、また、その喜びは一時的のでなく、永久に続くものと信じていたのです。
主が人にもたらした「慰め」は、元々「寄り添え」と「呼びかけ」の意味が含まれる。傷ついた心を癒す効果です。心が折れて、倒れそうなとき、手を伸ばしてくれて、又、悲しみに暮れて、苦しんでいるとき、励ましてくれる人がいることは、何よりもの「慰め」です。
マタイ5:4 「悲しむ人々は、幸いである、その人達は慰められる。」 罪を犯して、良心の呵責に苦しむ人は、真心をもって、悔い改めてれば、その罪が赦されて、神の慰めを受けられるのです。
ヨハネ一
2:1 で挙げた「弁護者」、即ち、慰めの人、同伴者である。途方に暮れる人に、イエスは赦しの「弁護者」として、寄り添ってくれる助け手です。
ヨハネ一書の作者の願いするところは、人が罪を犯さないようにあるが、しかし、たとえ罪を犯しても、御前に進み出るのです。そうすれば、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられますので、御前に進み出て、赦しの願いをすれば、罪が赦されるのです。慰められるのです。
又、罪は当人の経験不足から、自らの弱さから、又は、不本意な落とし穴に絡まれたからか、「弁護者」なるイエスはその時に適えた慰め賜り、不本意な記憶を抹消し、痛めた心を癒してくれるのです。
マタイ10:19 イエスは言われた:「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。」ヨハネ14:27 :「わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と。その平和は一時的なものではなく、永久に続くものです、世のどこにでも得られるものです。
三、結語
ヘブライ11:8 信仰によってアブラハムは、流離いの旅に出かけ、ついに、約束の地に辿り着いたのです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
神の更なる祝福は、その家系から、メサイア イエス・キリストが生まれたのです。
イエスの降誕は私達に希望の光を照らしてくれたのです。私達が苦難の最中に、慰めと救いを賜ってくれたのです。
イザヤ63:9
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える
御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に彼らを負い、
彼らを担ってくださった。
この大いなる恵みに、私達は神に感謝を捧げ、神も又私達を更なる信仰の奥義へと、招いてくれています。どうか共に学び、共に成長しましょう。そして、共に共に奉仕に努め、共に慰めを得、共に御国に赴くのです。
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