2012年8月23日 星期四

人は何故苦しみを受けるのか  


人は何故苦しみを受けるのか  
 
2007年8月12日  ヨブ記42:1~10

 

ヨブ記が示すものは、正しい人でも、苦しみを受けることがあると言う現実です。多くの場合、人生は当り前の果報がありません。敬虔な義の人ヨブが、突如肉体的、精神的、人情的、信仰的に耐え難い不幸のどん底に振り落とされた。ヨブは深い苦しみの中、見舞いに訪れた友人と言い争い、又、神と嘆きの押し問答を交わした。生きる筋道が欲しかったからです。最後にヨブは、神との正しい関係は、無条件に委ねるところにあると悟り、心の安らぎを取り戻したのです。

ヨブ記42:3が示したように:生命の意味は、物欲を満たすところにあるのでなく、全てを神に委ねるところにあると言うことです。御業はヨブでも理解し得ない、その知識で悟りえない「不思議」なものです。しかし、それでもヨブは神を背くことはなかった。これが肝心なところで、私達が見習わなければならないところです。

私達が災難に見舞われたときは、益々神にすがりつき、神の力のみが、私達の「時に適った助け」になりえると堅く立たなければ成りません。

ヨブ記42:1~6 ヨブは神に、自分の誤りを素直に認め、そして、悔い改めて、神の許しを乞いたのです。自分の無知、無理解、不信仰を認め、誠実に神を仰ぎ見る本来の姿に寄り戻ったのです。

ヨブ記42:8~10

ヨブは苦しみの最中、友人から多くの中傷、誹謗を受けたが、尚も彼らの為にとりなしの祈りを行った。その寛大さは、我々凡人がなかなか真似することができないものがあります。

どうか、神の助けを頼りに、我々も傷を負わされた相手の為に、ヨブがしたようなとりなしの祈りをしましょう、神に喜ばれる人間に成長して行きましょう。

かつて、心に傷を負わされた人、或は今も心を苦しんでいる人は、「苦難から忍耐を、忍耐から練達を、練達から希望を生む」と言う聖書の言葉のように、私達の人生は苦難と共に成長し、問題を解決する力を身に付けて行くのです。

好んで人助けをする人は、命に関る啓示を受け、一層命の意味を悟るものです。又、病苦を経験した人は、反って神との絆をより強くし、心の安らぎを得るのです。

病院で病人を見舞う人は、病人に慰めをもたらすだけでなく、自身も色んな病苦を目のあたりにして、命の尊さをより強く感じ取るのでしょう。

人生の終点:「臨終」は本人にとっても、家族にとっても、苦しみを伴うものです。その苦しみは何時も長らく、時間がゆっくりと流れます。親族の看病は、何時も手間をとり、神経を磨り減り、お金もかかります。時には耐え難い苦痛を覚えるものです。そんな時、叫びと恨み節だけでは問題を解決しない、思いやりと愛の真心を持たなければ、解決の糸口は見つからないものです。

ヨブ個人は重大な傷害を被った。体中重い皮膚病に冒され、家族が死に絶え、財産も全て失った。その運命は一夜にしてどん底に落とされた。彼は恨みを神にぶつけ、自分は何ら落ち度がないのに、何故こんな仕打ちを受けるのかと。更にヨブはその親しい友人の嘲笑いで追い討ちを打たされた。しかし、ヨブは全ての苦しみを神に托し、再び安らぎを得たのです。そして、神の恵みを再び取り戻したのです。

皆様も今までの人生から、色んな経験を体験してきたと思います。

詩編126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

イザヤ50:6-7 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。

台湾に劉侠(1942-2003)と言う方が居られました。12歳の時からリューマチ性関節炎を患い、一生痛みの中で過ごした。彼女は自伝の中でこう記した:命は私にとって、苦痛しかありません、しかし、却って私は命の尊さを学んだのです。神は私の身に苦難を落としたことで、私がその苦難を糧に、多くな事を学んだ。価値あるものは、必ず代償を払わされるのです。苦難は私にとって、信仰心と人格を鍛錬する道具でした。

アメリカの詩人Fanny Jane Crosby(1820-1915)が病気で両目の視力を失い、終身盲人になる。又、父親を早くなくしたため、母親が家計を助けるために、家政婦として働きに出なければならなかった。その惨めな生活の中、祖母が読んだ聖句がその人生を変えさせた:「何と痛ましい、主は血を流された、何故死を耐え忍んだか?」の一句です。

後に、彼女が詩をたくさん書き下ろし、神の栄光を称えたのです。

私達も互いに苦難を共に背負い、神の栄光を分かち合うではないか?万が一、苦難が我が身に降り注いだとき、嘆くのでなく、清く苦難から多くのものを学ぶのです。そして、全て神に委ね、神はその全ての重荷を背負ってくれると信じて揺るがないのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)    

 

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