聖 書 コリントの信徒への手紙一 11:23~26
日 時 2012年9月2日
一、 序言
ノーベル賞の創始者ノーベル氏曰く:「わたしは全ての財産を人類の幸福に貢献した人達に役立ててほしい」と。現在まで、世の多くの人がその恩恵に浴している。イエスキリストは人類に何かを残されたのでしょうか?それはこの世の至る所に教会がたてられ、多くの人々が悔い改め、霊的に救われたのです。主イエスがこの世を去るにあたって記念として晩餐を設けられた。
ここで福音書から聖餐について学んでみたいと思います。(マタイによる福音書
26:17~30;マルコによる福音書14:22~26;ルカによる福音書22;7~23;
ヨハネによる福音書13:21~30を参照)
1、 場所:ユダヤ地方のベタニヤ。
2、 時 :ユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時。
3、 事の起こり:イエスが弟子たちと共に居られた時に。
過ぎ越しの食事を如何に用意すればよいのかと、弟子たちはイエスに問いかけた。すると、イエスは二人の弟子を遣わして次のように言われた、「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。<先生が、(お宅で弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をする)と言っています。>」。と。イエスがそこへ着くと、まず、弟子たちの足を洗ってから、食事の席に着いた。(ヨハネ13:5)そして、除酵のパンを手に取り、それを裂いて、「これは、あなたがたのための私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に私の記念としてこのように行いなさい」と言われた。(コリント人への手紙一11:24~25)そして、弟子たちに、「 神を信じなさい。そして私をも信じなさい。」。それから、イエスはゲッセマニ園へ、来るべき試練への心の葛藤に立ち向かわれたのです。
三、 パウロの言付け
1、 パウロの悔い改め
当初、教会を迫害していたパウロが、悔い改めてからは主イエスキリストの福音伝道のために生涯を捧げられた。使徒行伝20:20~24ではパウロの宣教の任務と努力の目標が掲げられている。
20) 役に立つものは一つ残らず、公衆の面でも方々の家でもあなたがたに伝え、また教えて来ました。
21) 神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです。
22) そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
23) ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっています。
24) しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
2、 主の晩餐の意義
コリント人への手紙一11:17には主の晩餐について触れている。コリント教会が主の晩餐を他の宴会と混同して、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹のものがいるかと思えば、酔っている者もいるという始末で、本当の晩餐の意義が失われた。パウロはここで再度主の晩餐の意義を強調されたのです。すなわち、「主の福音を受け賜わる」ことであり、「イエスキリストの救い」に与る福音でもあるのです。
ですから、兄弟姉妹は常に粛々とした態度で主の制定された晩餐に与るべきです。
四、 記念として常に主イエスキリストの晩餐を執り行う
コリント人への手紙一11:24には「感謝の祈りをささげてそれを裂き、<これは、あなたたちのための私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさいと>言われました。」と記している。
イエスが言われた、「わたしの記念として、このように執り行いなさい」とは、単なる儀式ではなく、心から喜んで晩餐に与り、そして、神の救いの恵みを分かち合うのです。(詩篇111:4)
教会の規定により、私たちは、主の晩餐に与り、更に進んで以下のことを理解すべきであるの:
1)、神が備えられた救いの御業、主イエスの受難を常に思い浮かべるべきです。
2)、常に反省と悔い改めの心をもって、主の救いの恵みに与かるよう、心がけなければならないのです。
3)、喜んで主の救いの恵みに与り、罪を遠ざけ、自由の身になりたいものです。
4)神の救いの恵みが私たちの家庭の一人ひとりの心の中にありますように、そして、喜んで互いにその恵みに与り、分かち合えるように。
願わくは、神の祝福が皆さまの上にありますように。
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