2012年8月23日 星期四

主の弟子になる


主の弟子になる

コロサイの信徒への手紙212-14;ルカ2214-20

2006/03/05

 

 

一、はじめに

主による兄弟姉妹の皆さんにへいあんがありますように。私たちは皆主に選ばれた者でその幸いに沃し、大きな家庭に属しているものです。ある者は生まれながらにして教会の中で育ち、大きくなったものもいれば初めて、或いは短期間しか教会に接したものもいます。なんともあれ、皆様を大いに歓迎しお互いにこのいのちを分ち合えたものとして喜びを感じております。最も大切な事は体験を通しどんな困難にぶつかろうと、主の導きと呼びかけに答えこの真理の道を歩みましょう。

この道は簡単ではありません、或いは前に風雨が来ることもありますが、しかし、私たちは堅くこの道を守り抜き歩まなければなりません。何故なら神は決して私たちを捨て去りはなさいません。神は言われました『求めよ、さらば与えられん、戸を叩く者は開かれん。』

 

二、歓迎と祝福

今日は兄弟姉妹三人が心から喜んで私たちの教会に入会いたします。どうか、彼女らの為に大いなる祝賀といのりをしましょう。そして皆さんともう一度受洗の意義について考えていきたいと思います。まづ、こころから罪の悔い改めをし、そしてイエス様の血潮によって罪を洗い清められ、主イエス様の復活の力によって、新しく造られたものになるのです。今日、私たちはもう一度主イエス様の御名を呼び求め、私たちの罪をかれの上に置きましょう。彼は私たちのために重荷を担って下さいます。

私たちが自分でその荷を負うと多すぎて大変疲れます。そのために彼は私たちの罪のために死なれたのですから、よって私たちは罪から離れ、あたらし人になるのです。私たちの罪は基督イエスと共に死にイエス基督と共に復活するのです。そして救われて新しく造られた者となるのです。

 

三、主の聖餐を守る事

私たちは今日共に主の恵みに与り、主の聖餐を守ります。私たちの前に並べられている葡萄酒とパンは主イエスが十字架にかかられる前に弟子たちと共に守った晩餐と同じです。神が人類のためになされた救いを記念するのです。更にイエス様は弟子たちに言われました。間もなく、自分は十字架に掛けられて、死にますと、今に至る迄私たちはこの様式で聖餐を守ります。ぶとう酒はイエス様の血潮を代表します。イエス様が私たちのために十字架で流された血潮は私たちの罪を清めてくださいます。これによって私たちの心は、清められるのです。パンはイエス様の体を表和します。私たちのために犠牲になって、罪人の私たちを死から救い出してくださいます。そのため毎回主の聖餐式の礼典を守るのです。これによってもう一度心から主を受け入れ、主を祈念するのです。主の犠牲と許し、これらの事によって彼の救いは私たちの上に完全になるのです。

 

四、主の弟子

イエスを信じ彼を救い主として受け入れること、これによって私たちは主の弟子となります。

①そしてクリスチャンになるのです。初代教会ではイエスに従がった人たちをクリスチャンと呼びされた。当初は侮蔑を含んだ意味でしたが、このように私たちもこの社会では侮蔑されるかもしれません、彼らより区別され彼らは私たちと共に歩んでいかないかもしれませんが、先ず忘れてならないのは私たちは放火犯や殺人を行ったわけではないのですから、このクリスチャンと言う呼び名には光栄ある呼名として受け入れこれによって私たちは主の子供となるのですから。

②生まれからなければならないのです。この新しく生まれ変える意義とはもう一度母の胎に入って徹底的な覚悟で新しい人になるのです。新しい出発のない人はいつまでも罪に縛られて、あれもこれもが怖くて、出かけるにもことをなすにも、神明や佛に聞き従がって動くので、本当の自由の身にはなれないのです。しかし、主の弟子になるということは、私たちは主イエスキリストの助けにより罪のなわめから時離されて、本当の自由の身になるのです。これからは自由自在の身になるのです。

③新しい永遠の命の希望があります。

復活の主が私たちに新しいいのちを与え、私たちの一生の歩むべき道と行うべきみちを教え示して下さいます。私たちが若し無知で意義のない道を歩んだら、無駄な歩き道をしたことになります。しかし意義のある道を歩めば即ちこの人生を正しく歩んだらまさに多くの人々をも助けることが出来るのです。そればかりではなく、私たちには出来があり、主も私たちに新しい希望を約束してくださいます。それは永遠の命を得るという希望です。

頂度Ⅰコリントにあるように私たちは今鏡に映して見るように、おぼろげに見ている、聖書を開いて見ても霧のなかで花を見るようですが、しかし、若し私たちが一日一部分でもいいから少しずつだんだんと判切り分かってきます。私たちは共に歩む教会生活で主の弟子となり、求道をするのです。即ち一生を通して、永遠の道を歩みさがし求めるのです。神様は正しい道に貴方を導いてくださることを信じます。

 

五、最後に

私たちは生活の中では多くの努力をしていますが、それは先ず自分の生存の為に例えば健康を維持するとか生活の品質を高めるなど、これらの日常のことは努力すべきことで、兄弟姉妹たちもお互いに助け合っていくのですがきょうかいでは更に一歩進んで永遠の道を共に求めていくのです。イエス様はこうおっしゃいました:『私は道であり,真理であり、いのちである、誰でも私によらないでは父の御もとに行くことは出来ない。』その意味はイエスによってこそ、わたしたちは天の父の御もとに行くことが出来、真理と知恵、と真実それに命を得るというのです。

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等待救主降生

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